第3章 『まだ名前にならない感情へ』
その日は、やけに静かだった。
窓の外で風が鳴っている。
書類をめくる音と、遠くの足音だけが本部の廊下に薄く響いていた。
「𓏸𓏸、これ見た?」
机の向こうから声がして、顔を上げる。
ハンジが数枚の紙を片手に、こちらを覗き込んでいた。
「ん?なにそれ」
「新しい調査経路。ここの地形、少し面白くてね」
そう言いながら、隣に来る。
——近い。
いつも通りの距離。
いつも通りの声。
なのに、その日だけ、なぜか変に意識してしまった。
肩が軽く触れる。
紙を覗き込むために屈んだハンジの髪が、頬の近くで揺れた。
……あれ。
こんなに近かったっけ。
今まで何回も隣に座ってた。
肩だってぶつかってた。
同じ机で徹夜したことだってある。
なのに。
今日だけ、変だった。
「𓏸𓏸?」
「……えっ、あ、ごめん。聞いてる」
「ほんとに?」
くす、と笑う声。
その瞬間、ふと視界に入った。
伏せた睫毛。
眼帯の紐に引っかかった後れ毛。
書類を持つ細長い指。
——あ、やばい。
と思った。
今まで見えていたはずなのに、“見ていなかった”ものが、一気に輪郭を持ち始める。
指、綺麗だな、とか。
こんな声だったっけ、とか。
そんなこと。
今さら気づくなんて。
「……」
「どうしたの、静かだね」
「いや……なんでもない」
慌てて視線を逸らした。
でも駄目だった。
逸らした先に、今度はハンジの首筋が見えた。
シャツの襟から少しだけ覗く肌。
髪を結んだことで露出しているうなじ。
そこにかかる細い毛先。
変だ。
ほんとに変。
なんで急にこんなの見てるの、私。
「𓏸𓏸、顔赤くない?」
「は!?」
「熱?」
伸びてきた手に、心臓が跳ねる。
額に触れられる寸前で、反射的に椅子ごと後ろへ下がった。
「だ、大丈夫!!」
「えぇ?」
ハンジが目を丸くする。