第2章 声
僕の記憶は、いつも霞がかかっているようだ。
ぼやけていて、輪郭がはっきりしない。大切なもののような気がするけど、思い出せない。
手を伸ばせば届きそうな距離にあるのに、ふと消えてしまう。
蝶屋敷の庭は、静かだった。時間が止まったような空間だった。時折風に乗って消毒の匂いがする。なぜかその匂いを嗅ぐと朧げながら思い出すことがあった。
「大丈夫」「生きて…!」力強くて優しい声。そして手のひらに感じる温もり。
でも、それが何なのか。僕にはわからない。
胡蝶さんに呼ばれて蝶屋敷の廊下を歩いていた時、ふと目に入った。
洗濯物が風に煽られて、はためいている。なんてことない光景。
それなのに、なぜか足が止まった。どうしてだろう。理由を考えてみるけど分からない。
ただ、洗濯を干す人にひどく目を奪われた。
気づいた時には、もうその人に声をかけていた。
「……ねぇ、ちょっといい?」
投げかけた言葉に振り向いたその人は、目を丸くして僕を見た。
「……時透……様」
君の声を聞いた時、霞が晴れた気がしたんだ。でも、それは一瞬でまた遠くへ行ってしまった。
何だったんだろう、今の。懐かしい、というほどはっきりしたものじゃない。でも、ただの初対面でもない気がした。
目の前の人は、少し戸惑ったように立っている。洗濯物の白い布が風に揺れて、彼女の肩に影を落とした。
さっきまで、ここを通り過ぎるだけのつもりだったのに。今は、この人から目を離す理由が見つからない。
どうしてだろう。
俺は少し首を傾げた。
「あれ……君、僕とどこかで会った?」
目の前の人は、一瞬考える素振りをみせたあと、小さく首を振った。
「……いいえ。でもお噂は常々聞いております。今日はしのぶ様にご用ですか?」
会ったことはないと言うのだからそうなのだろう。
でも……
その声を、もう少し聞いていたいと思った。
「ちょっと前に受けた傷を診たいんだって。胡蝶さんは?」
「診察室にいらっしゃいます」
「そう」
でも、これ以上ここにいる理由がない。
方向を変えようとしたとき、静かだった風が急に音を立てて吹き抜けた。