第5章 春の刹那
「馬鹿!」
咄嗟に手を伸ばして空を泳ぐ小枯の手首を捕まえる。
と、小枯はその手を軽く引いて離し、霜刃の肩に手を置いて沢の水面を爪先で掠めながら身体を起こした。肩に置いた手を支点に、綺麗にぐるりと反転して霜刃の背後に下り立つ。
爪先蹴り上げられて飛沫した沢水が弧を描いて煌めき、霜刃は息を飲んだ。
「…びっくりしたな!」
振り向けば目を丸めて霜刃を見た小枯が、ハハッと楽しげに笑った。
「ありがとう。助かったよ」
ーこの刹那。
霜刃は悟った。
小枯の手を一時捕まえた手を、小枯が軽く引いて離した手を見る。
小枯は俺に守られるものではない。
小枯を見る。
笑っている。楽しげに、軽やかに、全く怯えもない様子で、無邪気に笑っている。
多分、沢に落ちたとしても小枯は笑う。
こんな風に、自分の失敗を笑って、濡れたまま歩き出す。
全く無頓着に、そしてたくましく。
霜刃は瞬きした。
そして俺は、そういう小枯が好きだ。
「行くぞ。皆に置いていかれてしまう」
小枯が霜刃の胸元をぽんと叩いて歩き出した。
その背中に揺れる黒い括り髪を見て霜刃はちょっと笑った。
…こいつが霜になるなら、俺も霜になろう。凍みになるというなら凍みになる。
今のように、いつでも手を差し伸べられるように。
何処かで気の早い鶯が鳴いている。
春の木立の淡い緑、杉や松の常盤緑、沢水の香り、土の匂い。
柔らかな春の微かなそよぎ。
弓と矢筒を背負った小枯の綺麗な後ろ姿。
紅い括り紐が鮮やかに眩しい。
霜刃は小枯を追って足を踏み出した。
弥栄