第2章 しゃけ大根に溶ける貴方の心 【鬼滅の刃 冨岡義勇】
あの日から、屋敷の空気が冷え切っている。
いつもなら、廊下の角を曲がれば「冨岡様」と柔らかく呼ぶ声がした。
稽古から戻れば、程よい温度の茶と、鼻をくすぐる出汁の香りが待っていたはずだった。
だが、今はただ、静寂だけが部屋に満ちている。
「……いないのか」
独り言は虚しく響く。
彼女が姿を消してから、数日が経っていた。
隠にも異動や任務がある。
いつまでも自分の世話を焼かせておくわけにはいかないと理解していても、胸の奥に澱のように溜まる「寂しさ」を、義勇は持て余していた。
「派手好きなあのお方が……」
ある日の午後、義勇が所用で蝶屋敷の裏手を通った時のことだ。
物陰から隠たちの話し声が聞こえてきた。
「……聞いたか? 水柱様に仕えてたさんのこと」
「ああ、音柱の宇髄様に指名されたんだろ? 潜入任務だって」
「よりによって吉原だろ? あの美貌だ、遊女のふりをさせるにはうってつけだって宇髄様が……。でも、あそこは上弦の鬼がいるかもしれないって噂だし、無事じゃ済まないんじゃ……」
義勇の足が、凍りついたように止まった。
脳裏を過ったのは、いつも控えめに微笑む彼女の姿。
(吉原……潜入……?)
あそこは、欲と嘘が渦巻く場所だ。
戦う術を持たない彼女が、そんな場所に、鬼の潜む巣窟に投げ込まれたというのか。
「……おい」
低く、地這うような声に、隠たちは悲鳴を上げて振り返った。
そこには、今までに見たこともないような「怒り」を瞳に宿した水柱が立っていた。
「みっ、水柱様!?」
「今の話は本当か。彼女が…が……宇髄の任務へ行ったというのは」
「は、はい! 数日前に、宇髄様に無理やり連れて行かれたと……『俺の嫁候補にしてやる』なんて冗談を仰いながら……」
ドクン、と心臓が跳ねた。
怒り、そして、喉を焼くような焦燥感。
今まで、どんな死線を潜り抜けても冷静だった義勇の心が、激しく波打つ。
「……場所は。どこだ」
「えっ? あ、吉原の……どの店かはまだ分かりませんが……」
「……あいつは、戦えない」
義勇の拳が、白くなるほど強く握りしめられた。
宇髄のやり方は知っている。
目的のためなら手段を選ばない男だ。
だが、は――自分のために鮭大根を炊き、傷を包帯で包んでくれた、あの温かな指先は。
