第3章 影を操る彼は彼女を隠したい 【呪術廻戦 伏黒恵】
降りしきる雨が、視界を最悪に曇らせていた。
少年院のそこはもはや、いのりが知っている現実の延長線上にはなかった。
「……っ、何、これ……」
隣に立つ伏黒の、極限まで張り詰めた気配が伝わってくる。
彼らの目の前には、不自然に捻じ曲げられ、空間そのものが呼吸しているような「生得領域」が広がっていた。
そして、そこに座していたのは、これまで出会ったどの呪いとも違う、圧倒的な絶望を放つ「特級呪霊」だった。
「……逃げるぞ」
伏黒の声が、かつてないほど低く、震えていた。
だが、身体が動かない。
いのりの足は地を這う泥に呑まれたように重く、呪力の差だけで魂が削られていく。
「あ……、あ……」
声すら出ない。
特級が指を弾いた。
それだけの動作で、地面が爆ぜる。
いのりの目の前を、虎杖が、そして伏黒が血を流して吹き飛んでいく。
彼女は、ただ見ていた。
二ヶ月間、ボロボロになりながら積み上げてきた特訓。
伏黒に褒められた呪力操作。
それら全てが、この怪物を前にしては「おままごと」ですらないことを突きつけられた。
「動け……動いてよ……!」
心の中で叫んでも、指先一つ動かせない。
呪霊の視線が、ふいにとゴミを見るような無関心さでいのりに向けられる。死の冷たさが首筋を撫でたその時――。
「いのり!! 走れっ!!」
伏黒の絶叫が、彼女の意識を強制的に繋ぎ止めた。
伏黒は血塗れの顔で立ち上がり、影から「鵺」を呼び出す。
特級の攻撃を紙一重で防ぎながら、彼は彼女を突き飛ばすようにして叫び続けた。
「外へ出ろ! 虎杖が時間を稼ぐ……お前がここにいても、一瞬で消されるだけだ!」
「でも、二人を置いて……!」
「いいから行け!!」
伏黒の瞳に宿る、必死の拒絶。
それは彼女を案じる優しさであると同時に、「今の君では、足手まといにすらなれない」という残酷な真実でもあった。
いのりは、震える足で走り出した。
自由を手に入れたはずの東京で、彼女が手にしたのは、雨の冷たさよりも凍えるような「無力」という名の絶望だった。
領域の外、雨に打たれながら待つしかないその時間は、彼女の人生で最も長く、惨めな時間となった。