第1章 旅立ち
────2009年 4月。
ざあざあと降り続く雨音は、今もなお私の耳の奥にこびりついて離れない。
「やぁ。初めまして」
降ってきた声に顔を上げると、そこには見覚えのない男の人が立っていた。
怖いくらい整った顔立ちで、まるで場違いなほど穏やかな笑顔を浮かべている。
その人は五条袈裟を身に纏い、長い髪の一部を後ろで結い留めていた。
「だ、れ……?」
声を絞り出すのがやっとだった。
手足は小刻みに震え、本能が必死に「逃げろ」と叫んでいるのに、身体は地面に縫い付けられたみたいに動かない。
「私の名前は夏油傑。少し前にとある呪霊の封印を解いたんだけど……可笑しいね。どうやら祓われてしまったらしい」
くすくすと、楽しげな笑い声を混ぜながらそう告げる夏油さんは、同じ傘の中でずぶ濡れになった私の頬に、そっと手を添えた。
「君も……」
何かを言いかけて、彼は言葉を切る。
じっと私を見つめ、その視線が、値踏みするように、確かめるように、私の奥を覗き込んでくる。
「いや、それはもう、アイツ以外には似合わないね」
意味の分からない独り言。
私の前髪を伝って落ちる雨粒が、彼の手の甲へとぽたり、ぽたりと零れる。
その雫を、夏油さんはなぜか愛おしそうに目で追い、親指で私の頬をゆっくりと撫でた。
「私と一緒に来ないかい?私たちと、素晴らしい世界を創ろう」
「…………」
この場には不釣り合いなほど、優しい微笑み。
怖いはずなのに、まるで感情だけを雨に洗い流されたみたいに何も感じていなかった。
ただ、鼻先が触れそうなほど近い距離の夏油さんを、ぼうっと見上げることしか出来ない。
「あれ?聞こえてない?」
黙り込む私の目の前で、ひらひらと手が振られる。
何を言われているのか、どうして私なのか────そのどれもが分からないまま、思考だけが空回りする。
「…………」
「あ……」
不意に名前を呼ばれた。
その声は、胸の奥にすとんと落ちてくるような、酷く安心できる響きだった。