第116章 温慈恵和(おんじけいか)
まあ、ちょっと話がそれたが、このようなトラブルに見舞われたせいで、結局母が綿貫亭に到着したのは、予定していた時間よりも6時間も遅い午後9時のことだったのである。
「途中で電話してくれれば迎えに行ったとに・・・」
「大丈夫っちゃ、子どもやないんやけ」
ダイニングでお茶を飲みながら母がおっとりと笑う。いや、大人だというのは分かってるんだけど、昔からちょっとぽやぽやしているので危なっかしくはあった。でも、どうやらスマホの地図を頼りにちゃんとたどり着けたようだった。
『まま・・・』
清香ちゃんがくいくいと手を引く。
うっ・・・と息が詰まる。そっちを向きたいけど、今、母の目の前で清香ちゃんに顔を向けるわけにはいかない。
「あ!そうだ!!お茶菓子あるけね、ちょっと持ってくるけんね」
そそっとキッチンに。その後ろを清香ちゃんがトコトコついてくる。
「えーっと・・・お茶菓子、お茶菓子っと・・・」
探すふりをしてキッチンテーブルの影にしゃがみ込んで、清香ちゃんに
「なーに?」
と小声で尋ねる。
『あのね、清香ね、折り紙できたの!』
清香ちゃんも私に合わせて声を潜めてくれる。見ると、芝三郎に教わったのだろう、見事なうさぎの折り紙がちょんと手に乗っていた。
「すごいねえ!きれいきれい!」
頭を撫でてあげると、にこーっと笑って、そのままパタパタとソファに向かって走っていった。ソファには芝三郎が座って本を読んでいたし、ダリがうつらうつらと居眠りをしている。
『お母さんがいる間は、大人しくしてて』
という私の言いつけを三者三様の方法で守ってくれているのだ。
今、何が起きているのかというと、実は、母にはダリの術がかけられているのだ。
綿貫亭に入る前に、ダリが母にかけてくれた幻術によって、母からはこの家にいる『私以外のモノ』の存在が認識しにくくなっているというわけだ。
結局、私たちは、ダリの幻術を頼りにして、今まで通りに綿貫亭に住み続けることを選んだのである。