第12章 秘密の約束
コーヒーの薫りに満たされ、クラシックのBGMが静かに流れるカフェの店内。緒方と白川はカウンターの端に並んで座り、コーヒーを味わっている。緒方はひそかに、週末の星歌との美術館の約束を思い返している。
ガラス扉が開き、芦原がゆったりと入店する。
「星歌ちゃん、久しぶり! 元気?」
「芦原先生、お久しぶりです、いらっしゃいませ」
「指導碁とかイベントの手伝いとか勉強会でバタバタしててさ、久々に来られて嬉しいよ」
芦原はカウンターに腰掛けて注文を済ますと、再び星歌に話しかけた。
「最近は何か読んでるの?」
「夏目漱石の『こころ』を読んでます。先生は読みましたか?」
星歌は目を輝かせて芦原に問う。
「夏目漱石ってお札の人?『吾輩は猫である』は聞いたことあるけど『こころ』は知らないな〜。オレ、マンガしか読まないからな〜」
芦原は軽く笑って返す。
「そうですか…」
緒方は星歌がわずかに見せる残念そうな表情を見逃さなかった。マンガしか読まないのにどうして聞いたんだ?と、芦原の反応に内心で突っ込む。もしかして、志水くんが日本文学を学びたいってこと知らないのか…?星歌の文学への情熱や美術館の約束を思いだし、優越感が強まる。
「最近、映画とか見た?」
芦原は話題を変えて続ける。
「今は…見たい映画がないですね」
「そっか…じゃあ、どこか行ってみたいところ、ない?」
「美術館はいろいろ行きたいです」
「美術館か~。オレ、ゴッホより普通にラッセンが好き、かな〜」
「ラッセン?ゴッホはお好きじゃないですか?」
「…このギャグ、知らない?」
「すみません、分かりません…」
芦原と星歌の間には微妙な空気が漂っているようだ。
「このギャグが流行ってたときはニューヨークにいたんじゃない?」
白川が口を挟む。
「オレは印象派好きだよ。モネとか好きだな」
付け加えるように白川が言う。
「モネ、いいですよね!」
星歌の目が再び輝いている。
「ゴッホ、嫌いじゃないよ。でも、芸術とか正直よくわかんないな」
芦原は苦笑いでごまかす。
緒方は芦原のズレた会話に呆れながらも、自分は芦原とは違うという自信のような感情を抱いていた。