第4章 幽玄の間
今回だけ特別にと、星歌は幽玄の間への入室を許可された。幽玄の間は特別な対局室であり、主に大きなタイトル戦で使用される。新初段シリーズは、新人棋士が早くここで対局できるように頑張りなさいとの意味を込めての儀式的な対局だ。この部屋の厳かな雰囲気は、緒方の棋士としての緊張を高める。対局ではなく星歌のために訪れていることに緒方自身も少しの疑問を感じてはいたが、星歌の喜びようにそれも消えていった。
「これが川端康成の…」
書を見つめる星歌の声に文学への愛情が感じられた。
「緒方先生、ありがとうございます。見られてよかったです」
「鍵を貸してもらえなきゃ入れなかった。キミがあんなに寂しそうな顔をするから事務局長も同情したんだろうな」
「そんなに寂しそうでしたか…?」
少し拗ねたように星歌が聞いた。
「ああ、だからオレだって事務局長に頼んでやったんだ」
笑いながら緒方が言った。
「え、恥ずかしい…でも、ありがとうございます」
星歌は再び礼を言い、深くお辞儀をした。
幽玄の間の扉を閉め、緒方と星歌はカフェへと戻る。星歌の瞳には、川端康成の書を見た感動が宿っている。何の気なしに提案したが、これだけ喜んでくれると言ってみた甲斐があるな…と緒方は思う。
2人が廊下の角を曲がると、緒方の同期の白川道夫七段が対局室から出てくるところだった。白川は、緒方と星歌を見つけると、手を挙げて近づいてきた。
「よう、緒方。珍しい組み合わせで歩いてるな? カフェの出張販売かな?」
「白川先生、こんにちは。 緒方先生が幽玄の間へ連れて行ってくれたんです。川端康成の書、すごかったです!」
「へえ、緒方もいいところあるな」
そう言いながら白川は緒方の肩に手を置く。
「緒方と2人きりで、変なことされなかった?」
今度は星歌に、茶化すように聞く。
「緒方先生はそんな人じゃありませんよ」
星歌は無垢な笑顔で返す。
「するわけないだろ…」
緒方は呆れたように呟いた。オレをジジイどもと一緒にするなよ…と内心で毒づくが、星歌の擁護に口元がわずかに緩む。
「はは、冗談だよ。志水くん、緒方をよろしくね」
白川は笑いながら対局室へ戻っていった。