第4章 幽玄の間
カウンター内の椅子に、星歌の文庫本がある。先日の『吾輩は猫である』とは違う本だな?と緒方は思った。
「今度は何の本だ?」
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった…。『雪国』です」
「川端康成か」
本当に日本文学が好きなんだなと緒方は感心する。
「幽玄の間の掛け軸って川端康成が書いたんですよね。先生は幽玄の間に入ったことありますか?」
星歌の質問には無垢な好奇心が感じられた。
「ああ何度か。ほとんどの棋士が入ったことがあるぞ」
「そうなんですか?」
「新人棋士の新初段シリーズは幽玄の間で対局するんだ」
「新初段シリーズ…」
小さく繰り返して星歌は、再び話しはじめた。
「先週、早めに来て幽玄の間にやっとたどり着いたのに入れなくて…。特別な部屋ですもんね…」
「やっと…?」
「…私、方向音痴だから…」
「そんなに迷うようなところか…?」
「私、学校の家庭科室も1人で行けないんですよ…」
家庭科室に1人で行けない…?思わず緒方は苦笑いをする。そして、星歌の寂しそうな表情に気づく。どうにかたどり着けたが幽玄の間に入れなかったことがよほど残念だったのだな、と緒方は思った。
店内にはマスターが豆を挽く音が響き、客は緒方のみ。今ならマスターだけでも大丈夫だろうと緒方は考え、星歌に対してのささやかな親切心から言った。
「入れる保証はないが、連れてってやるか?事務局長に頼んでみよう」
「本当ですか? やった!」
星歌の顔が明るくなり、弾むような声。
「あまり期待しすぎるなよ、事務局長の機嫌がいいことを祈ろう」
「マスター、志水くんを借りるぞ」
緒方はマスターに告げ、星歌に「行くぞ」と言う。マスターは黙って頷く。
「え?今から?」
驚く星歌だが、マスターに「すみません、すぐに戻ります」と声をかけて緒方を追った。
移動中に緒方は星歌に聞く。
「家庭科室に1人で行けないって、大丈夫なのか?」
「私、今月転校してきたので家庭科室って数回しか行ってないんです。だから大丈夫です。あと何回か行けば覚えます」
転校?東京に来たばかりか?と思いつつ、詮索するような質問を避けたい緒方は、「なるほどな」と話を一区切りした。