第1章 依依恋恋 一話
よく原稿が煮詰まると何処かへ旅に出たくなる作家は多いとは聞くが、【明智光秀】もそうなのだろう。自身を気遣ってくれる秀吉へ笑顔で礼を言いながら、相手が立ち去った後で凪は資料をじっくりと読み込み始める。
テレビ取材不可、顔出し不可、しかし売り出している名はペンネームではなく本名、巻末に載っている自画像は狐の絵という、謎に満ちた売れっ子人気作家の噂は、凪も入社以来幾つも耳にして来た。曰く、とんでもないイケメンだという事、とんでもなく美声だという事、とんでもなく女を泣かせているという事。彼の担当編集になった女性は、ほぼ百パーセントの確率で作家相手に恋をする。
けれど、その想いに応えてもらえた人は誰もいない───故に、惚れれば地獄と呼ばれた男、明智光秀。
(……まあ私はあくまでも先生の作品が好きな訳だし。公私混同駄目、絶対!)
果たして件(くだん)の【明智光秀】がどんな男なのか、期待と不安を胸に抱きながら、凪は手元の資料へ改めて意識を集中させたのだった。
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都内の閑静な住宅街、その一角である広々とした敷地内に凪はいた。ここは噂の売れっ子作家、明智光秀の自宅である。初顔合わせは先方の自宅で行う事が予め伝えられており、凪は初の担当作家となる男の元へ足を運んだのだった。光秀の自宅は純和風建築の一軒家で、二階建ての如何にも広そうな邸の玄関へ至るまでには、美しく整えられた庭が広がっている。飛び石で作られた道は実に趣があり、まるで乱世へタイムスリップしてしまったかのような感覚に陥った。
(凄い……さすが人気作家のご自宅……一般庶民とは格が違う……)
至って普通の家庭で育った凪には、到底縁のなさそうな邸宅の門付近にあるインターホンを押すと、目の前の黒門が自動で開かれる。おそるおそる足を踏み出した凪が玄関前に立つと、再度来訪を知らせる呼び鈴を鳴らした。