第1章 壱 紅い月
目を開いた時、最初に視界に映ったのは赤い月。雲ひとつない黒い夜空に赤く欠けた月はよく映えた。
次に背中に砂利の感触があると気付くと、少しずつ体の痛みが鮮明になっていく。
つまるところ、私は大地を背に仰向けに倒れていた。
「やあ、良い夜だね」
途端、赤い月が何かに遮られ見えなくなった。代わりに私の視界いっぱいを覆ったのは、やけに端正な顔立ちの男。
瞳に浮かぶ、「弐」の数字。
疑問は山ほどあった。
今の状況に一切の覚えがない。こんな顔の知り合いもいない。まずはここはどこであるのか、とか、聞かねばならないと思う。
だがどうしてか、この男を前にして私の体はこわばって、ろくに動いてはくれなかった。威圧感、というやつだろうか。本能が逃げろと叫んでいる。令和の世を生きていた私には知り得ることのなかった、生物としての本来の生存本能が警笛を鳴らしている。
目の前の男は間違いなく笑っているのに、何か一つでも間違えたら"死ぬ"。という、妙な確信があった。
しかし警鐘を鳴らす体と相反するように、私の心は凪いでいた。
「どうしたの? もしかして既に死んじゃってる? あらら……可哀想に。すぐ楽にしてあげるからね」
男は金色の扇子のようなものを開くと、先をこちらへと向けた。洗練された動き。舞台に立つものや、スポーツとして武道を嗜む人間のそれとは違う。目の前の人間を間違いなく狩ってきたのであろう動きには、一切の無駄がない。
赤い月を背に構えた男は、今まで見たことのないほどに美しかった。
「……綺麗」
漸く動いた私の口が紡いだのは、結局はそんな陳腐な三文字だった。
「あちゃー、もしかして走馬灯とか見ちゃってる? 可哀想に」
「いいえ、いいえ。走馬灯などもう、とうに見尽くしてしまいました。既に死んだ身なのです。……私にはもう何もありません」
だから彼のその扇子が私を貫いたとて、特に何が変わったりもしない。本来の私は既に列車に轢かれて死んでいる。何かのバグでこんな場所で来てしまったようだが、本来行くべき地獄へと改めて向かい直すだけだ。
「……へえ?」
しかしその言葉は、男の何かに触れたらしかった。