第87章 口付け【R18】冨岡義勇
「義勇さん…?」
震える声でその名を呼ぶ。頬を撫でていた義勇の指先が、なぞるようにして唇へと降りてきた。
親指の腹が柔らかな唇に触れた瞬間、昨夜の口付けが蘇り顔が火照る…。
このままでは、流されてしまう…。
ゆきは振り払うように、立ち上がろうとしたが、それを遮るように義勇は、静かな声で問いかけた。
「俺に初めて鮭大根を作ってくれた日を、覚えているか。…稽古が休みの日に、お前が屋敷に来て作ってくれた。」
ゆきの鼓動が早まる…。
義勇は視線を逸らさない。碧い目で真っ直ぐに見てくる。
「お、覚えてません…」
その視線に耐えきれず、ゆきは思わず嘘をついた。
…嘘。忘れるわけがない。
あの日のあなたの、驚いたような、それでいて少しだけ照れたあの表情を…
「旨い」と言ってくれた、その一言だけで、世界が輝いて見えたあの瞬間のことを…。
忘れるわけないよ…
義勇は拒絶されたと悟ったのか、ゆっくりと俯いた。
「そうだな…昔の話だ。すまん、困らせた」
寂しげに触れていた私の唇から離れていく指先…
忘れるわけがない。
あの頃、私は狂おしいほどにあなたに恋焦がれていた。
稽古の合間に目が合うだけで、胸が苦しくて張り裂けそうだった。
強く抱き締めてほしかった。
壊れるほどに口付けしてほしかった。
頭の中はいつだって、無口で不器用なあなたのことでいっぱいだったのに。
「…そういえば昨夜、時透と継子の美月が縁側で抱き合っていたが、あれはどういうことだ?」
その言葉に、ゆきは一気に現実に引き戻された。
「あいつ、お前に復縁を迫っているはずだろう」
義勇の鋭い追及に、ゆきは動揺を隠せない。
「み、美月さんは先日の任務で腕を怪我していましたし…無一郎くん、怪我を気遣って撫でていただけかも…?」
「そう見えていたのなら、あの物置小屋で時透を見る顔は、あんな悲しそうな表情にならないはずだ…辛そうにしていたから、俺は堪らずお前に口付けをしただ…。」
ゆきの手が僅かに震えていた。
「時透の屋敷に行ってお前は、ちゃんと大事に、されているのか?」
「大事に…さ、されてます…!」
その言葉と同時にゆきの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。