第87章 口付け【R18】冨岡義勇
「稽古を始める」
そう告げた義勇の声は、いつも通り淡々としていた。
昨夜、物置小屋で交わした熱い口付けなど、まるで幻だったかのように。
しかし、いざ稽古が始まると、ゆきは自分の心臓の音がうるさくて仕方がなかった。木刀を構え、義勇の瞳と視線がぶつかるたび、唇に残る柔らかな感触と彼の熱が鮮明に蘇ってくる…。
駄目だ…集中しなきゃ。でも、どうしても義勇さんの顔が見られない…
ゆきの動きは目に見えて鈍くなり。鋭いはずの打ち込みは力なく、足運びもどこか覚束ない…。
一方の義勇もまた、いつもの彼ではなかった。
普段の稽古なら、冷静に、無駄のない動きでゆきを圧倒する。
けれど今日、ゆきの身体がひらりと舞い、その拍子にふわりと漂う甘い香りが義勇の鼻先をくすぐるたび、剣筋に微かな狂いが生じていた…。
いつもなら気にも留めないはずの、ゆきの柔らかな甘い香り。
それが今日に限っては、気になる。
「…一度、休憩にする」
耐えかねたように義勇が距離を取った…。
義勇の呼吸は、いつもの厳しい稽古によるものとは違う、乱れ方をしていた。
縁側に並んで腰を下ろすと、話す事がなく二人黙りこくった。
気まずさに身を縮めるゆき、義勇がようやく、絞り出すような声で口を開いた。
「…さっきの、不死川との話は何だ」
「えっ…ただ、任務の報告のついでに寄ってくれただけみたいで…」
「不死川の事はどう思っているんだ?」
「ど、どうって…お兄さんみたいな存在です。」
義勇は、ゆきの方に顔を向けて真剣な目で見つめてきた。
「不死川は、お前の事を好いている」
「あの…それは…」
「俺と話す時よりお前は、楽しそうだった。」
ゆきが、思わず義勇の方に顔を向けた…
義勇が、とても切なそうな表情を、自分に向けているのに初めて気付いた…。
「今は…色々あったから義勇さんとの会話はぎこちないかもしれませんが、昔は楽しかったですよ…義勇さんとお話するの」
その言葉に、義勇の胸は締め付けられ熱くなる…お前を、時透の任務中に預かったあの時を思い出す…。
口下手な俺に、つきまといいっぱい話しかけてくれた…。
義勇が、ゆきの頬に手を伸ばす…
「いつから、こんなに俺達は、拗れたんだろう…。」