第85章 霞柱邸〜時透無一郎【R強】
翌朝、食堂に漂う空気はどこか冷えていた。
昨夜の傷が癒えぬまま、重い体を引きずって席についたゆき
そこへ、腕に痛々しい包帯を巻いた美月が現れた。
昨夜、無一郎が彼女を抱きかかえて去った理由がその怪我にあることは分かっていたが、何も聞かされていないゆきは、知らないふりをして声をかけるしかなかった。
「その腕…大丈夫?」
「…うん」
美月の返答は、そっけなかった。
気まずい沈黙が流れる中、少し遅れて無一郎が姿を見せた。
しかし、その登場によって場の空気はさらに歪んでいった。
並んで座る無一郎と美月の間には、昨日まではなかった秘め事のような、妙に余所余所しくも親密な距離感があった。
ふとした瞬間に美月が無一郎をじっと見つめ、無一郎もまた、何かを誤魔化すような視線を美月に返す…。
言葉を介さない二人のやり取りが、ゆきの心に深く突き刺さる。
私だけが、何も知らないんだ…
戦う力もない、ただ守られるだけの弱い自分。
早くこの場から去りたくなってゆきは、半分も進んでいない箸を置いた。
「ごちそうさまです」
「…え? ゆき、もういいの? まだ体が痛むの?」
無一郎が即座に反応し、心配そうに覗き込んでくる。
その瞳はいつものように澄んでいるけれど、今のゆきには、無一郎が何を隠しているのか、何を考えているのかまったくわからなかった…。
「…ううん、大丈夫、稽古に行ってくるね」
顔が引き攣らないよう無理に笑みを浮かべ、逃げるようにその場を後にした。
背後で、美月が冷めた目で、自分を見送る気配がした。
自分が去ったことで、あの二人はようやく「本当の会話」を始めるのではないか…そんな不安だけを残して、ゆきは、稽古のために義勇の屋敷に向かう準備をはじめた。
「美月…昨日の晩のことだけど…あれは事故だから…」
「ゆきさんと私を間違えて口づけした事ですか?」
「疲れていて…うとうとして…つい…」
無一郎は、珍しく焦った声を出した。
「ゆきには…言わないで…変な勘違いされたくないから」
美月は、無一郎の側に歩み寄った。
「言わないのでたまには、夜に部屋に来てくださいね…」
「…わかった…」
無一郎は仕方なく美月の要望を聞き入れた。