第5章 好きか依存か
与謝野との帰り道、香織は夜風に吹かれながらもずっと俯いていた。
夏の夜にしては湿り気のない涼しい風が、頬を撫でるたびに、与謝野の言葉が何度も頭の中を巡った。
『彼奴は香織に惚れているよ、執着心がある』
『隣にいてあげな』
それが本当なら、どれだけ救われるだろう。
だが足を止めるたびに胸を締めつけるのは、太宰のあの気まぐれで、底の見えない瞳を思い出すからだった。
部屋に帰り、玄関の鍵を閉めると、香織は鞄を床に置いたまま、その場に膝をついた。
靴も脱がずに、ただ無防備に床に座り込む。
与謝野に言えなかったことが、胸の奥で鈍く疼いていた。
(太宰君は、私に何を見ているんだろう)
香織は立ち上がり、重い体を引きずるようにして洗面所へ向かった。
鏡に映った自分の顔は、どこか他人事のように思えた。
赤く潤んだ目の奥には、太宰に向ける笑顔とは似ても似つかない無防備な孤独が滲んでいる。
「これが恋?」
ぽつりと口にした声は、蛇口から落ちる水の音にすぐに掻き消された。
恋なんて知らなかった。
誰かのことを考えて眠れなくなる意味も、言葉を交わした後に胸が詰まる理由も、全部分からなかった。
けれど太宰と目が合うたびに、何かを見透かされているようで、心臓の奥を掴まれる。
なのに、掴まれたまま離してくれないその人に、安心している自分がいる。
タオルで顔を拭き、冷たい水を何度もすくっては頬を叩いた。
(太宰君の隣にいるだけで……私、何を残せるんだろう)
与謝野は、隣にいろと言った。
でも自分が差し出せるものなんて、何があるだろう。
自分がいなくても太宰君は笑って、誰にでも優しくて、冗談を言って人を煙に巻く。
そんな人の隣に立つ資格なんて、自分にあるんだろうか。
考えれば考えるほど、胸の奥が苦しくて吐き気がした。
けれど逃げるように寝台に横たわっても、瞼の裏に浮かぶのは、あの気怠げな笑みばかりだった。