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【第二章】ヨコハマ事変篇 〜ひとしずくの願い〜

第2章 青の時代 〜忘れられないあの日の思い出 𝓟𝓪𝓻𝓽1〜






美鈴は息を殺して、その場を離れた。
背を向けた途端に視界が滲んで、廊下の隅の壁をすり抜けるようにして足を動かした。
誰にも気づかれないように、誰にも呼び止められないように。
玄関の扉を開けると、夜の空気がひどく冷たくて、肌を刺すほど痛かった。
それでも、吐き出した息と一緒に胸の奥の声が漏れそうで、泣き声を堪えるように唇を強く噛んだ。
靴も履き替えずに外に出た足は、砂利を踏む音だけがやけに大きい。
庭を抜けて、家の塀を越えた。
小さな街灯の明かりが背後に遠のいていく。
近くの森へ続く細い道をただがむしゃらに走った。
枝が袖に引っかかり、膝を擦りむき、倒れそうになっても、振り返ることはできなかった。
暗い森の奥で、とうとう足が止まった。
木々の隙間から差す月明かりが吐息と一緒に白く光った。
肩で荒く息をしながら、美鈴はふらりと木の根元に膝をついた。
何も聞こえないはずの森が妙にうるさく感じた。
木々が囁いているように思えた。

『妹の足元にも及ばない』

『花を咲かせて何になるの』

『家の顔に泥を塗ってる』

誰かの声が、頭の中で何度も何度もこだまする。
美鈴は耳を塞いだ。
けれど止まらない。
堪え切れず、ぐしゃりと落ち葉の上に倒れ込んだ。

「……いやだ……」

かすれた声が零れた。

「もう……いや」

冷たい土の匂いと湿った苔が頬に触れても、もう立ち上がる気力はなかった。
手のひらで土を掴んでも、指の間からすぐに零れていく。
それが、自分の存在みたいだと思った。

「……消えたい」

吐き出した声は、森に呑まれてどこにも届かない。
冷たい風が枝を揺らして、美鈴の髪を掻き乱した。
頬に滲む涙を拭く手すら、もう動かせなかった。






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