第4章 癒やし柱(いやしばしら)
結局寝たのは…丑三つ時(午前2時)に入る少し前だった……;
明治コソコソ噂話
『カカン♪』拍子木の音
実は耀哉は一人っ子で寂しかったらしい
母上は耀哉を産んで亡くなられた
乳母となってくれた者しか女性はいなかった
年の近い友人も居(お)らず、仲良く誰かと遊ぶことも少なかった
自由に満足に運動も出来ず、面倒を見る方もいつも常に気を張ったり気を遣ってばかりで
安心して一緒に遊べる人が居らず、姉や兄に強い憧れを抱いてもいたそうです
そこでお館様の言葉もあり、より一層一緒に居たいという想いが爆発してしまったとのこと
明治時代、日本への車の輸入は1898年1月ですが
何故1895年11月1日に車で来たのかというと……
痣が出始めて養生する中で自由に外を出歩けず暇を持て余したお館様が、ふと車の情報が載った外国の新聞を見、車の構造を理解し、刀鍛冶の里へ依頼して造らせたのだそうな
たまに昼間の内に人のいない場所で自由に運転(ドライブ)をしているそうです
その車は大正時代になった後も大事に置いているんだとか
予備の車も1台あり、大阪で見たのはそちらの方だと
時速は15kmとかなりよく
(鍛冶師の方々がかなり頑張ってくれました)
実に500km以上もの道のりを、隠の方に4日も掛けて帰って来てもらったそうです
行きの道中も同様に掛かり、出立より5日以上前から先んじて行ってもらっていた
車で途中まで運んだ後に列車に乗り
それから車で駅の近く、人の目の無い場へ来てもらい、再び移動といった手法を取られたそうです
恵土の光の呼吸、肆ノ型・陽光という名は、陽光山から取って名付けられました
後に、耀哉が持って来てくれた陽光山の木材、樹液は順に
封光玉(ふうこうぎょく)、樹来(じゅらい)と名付けられた
樹来から日輪刀用に造られた塗料、すなわち漆は樹漆(じゅしち)
予言の子(恵土)が産まれたのは
お館様の父上が亡くなってから程無くしてのことだそうです
もう数日遅ければその時を一緒に迎えられたのにと心痛に伏していました
光の呼吸は陽光色とあるが
実際には、透明色となった(色変わりした)ことで、内部にある陽光が反映され、陽光色という目視へと至った
と言う(表現する)方が正しい
しかし、ただの色なので吸収された中の光は変わらず消耗されないとのこと
