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音の向こうに

第3章 かすかな音の理由


合奏が終わったあと、奏はひとり教室の隅でクラリネットをふいていた。まだ、唇が少しヒリつく。けれど痛みよりも、心のほうがざわざわしていた。(もっと、上手くなりたい)初めての合奏。まわりの音の中で、どうしても自分の音だけがなく感じられた。吹いているはずなのに、届いていないような――そんな気持ち。「……指、覚えた?」不意に、背後から声がした。驚いて振り返ると、そこにいたのは宮本先輩だった。バリトンサックスのケースを肩にかけたまま、変わらない無表情でこちらを見ている。「え、あ……はい。でもまだ、音が全然……」奏は思わず、楽器を抱え直した。宮本先輩は数歩こちらへ近づいて、彼女の手元をちらりと見た。「指は悪くない。けど、息が浅い。もっと、楽器の中に“吹き込む”感覚を持ったほうがいい」言葉は冷静だけれど、指摘は鋭い。けれどそれは、非難ではなく、音に正直な人の言葉だった。「……吹き込む?」「息を使って、楽器の“芯”まで音を届ける。そうしないと、音は響かない」言って、彼女は自分のバリトンサックスを取り出した。部室の隅、小さなスペースに座って、構える。「よく聞いてて」その瞬間、音が、空気を押し広げるように鳴った。――太くて、温かくて、どこまでも響く音。たった一音なのに、教室の空気が変わった。窓ガラスが微かに震えて、壁のポスターがゆれた。それは奏が、ずっと追いかけていた音――あの記憶と重なる音だった。(……この人だったんだ)小さい頃、どこかで聴いたあの音。その正体が、目の前にいた。「……どうしてそんな音が出せるんですか?」気づけば、聞いていた。宮本先輩は少しだけ黙って、それからぽつりと答えた。「……音しか、信じられなかった時期があったから」その言葉の意味までは、奏にはまだわからなかった。けれどその目が、一瞬だけ遠くを見つめたことだけは、わかった。「君も、いつか自分の音を見つけなよ」そう言って、宮本先輩は静かに立ち上がった。音の残響だけが、彼女の背中を追いかけるように残った。奏は、自分のクラリネットを見つめる。この中に、わたしの音はあるのだろうか――まだわからない。でも、探してみたいと思った。その音の向こうに、何かがある気がした。
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