第1章 崖っぷち
靴裏の蹄鉄が地面を踏むたびに、足が少し沈む。
まるで誰かに掴まれているような気分になりながら泥濘んだ芝を駆けていた。
夜風を切るように走っても、湿った空気が肺に貼りつき、汗も乾かず肌に重く残る。
1600m走ったところで、キトウホマレは脚を止めた。
『ふぅ……』
息を整えながらホマレは足裏の泥をトントンと落とす。
夕方まで雨が降っていた。そのためか練習場の使用者は少ない。
ある程度コースを自由に使えるものの足元があまりにも悪い。怪我をする可能性を考えると、トレーニングの環境としてはよくない気がした。
だけど、天気やバ場の状態が良い日は人が多くて好きに使えないことが多い。人目を気にせず気が済むまで走れる機会なんて今日みたいな日くらいだろう。
『もう1 回……』
21時半。高く伸びたポールの投光器のおかげでコース内は明るいけれど、辺りはとうに真っ暗だ。寮の門限が迫っていることもあり周りは撤収を始めていた。
最後にもう一走りしようと、ホマレは脚まわりの泥を払い靴ヒモを結び直す。
比較的緩んでいない路盤を踏み、その場でスタンディングスタートの構えを取る。
そして軽く目を閉じた。身の回りにスタートゲートがあるかのようにイメージし、ゲートが開く瞬間を待つ。
遠くの観客席からのざわめき。両隣から漏れる緊張と興奮の混じる呼吸。スタートの直前の、一瞬の静寂。
『(……今!)』
想像上のゲートから飛び出し、また泥濘のコースを走っていく。
左周りに芝を駆けコースの半周ほどを進んだとき、ふと校舎の方から視線を感じた。
『(……?)』
誰かと目があったような気がしたけれど、建物周辺は暗さが増していてよく見えない。
気になったものの、そのまま決めた距離まで走りきることにした。
『ぜぇ、はぁ……よし、完走』
また1600m走った後、先ほど気配を感じた方にもう一度目を向ける。
しかし夜ということもあり、誰が居たとしてもよく見えなかった。
『……帰ろ』
もうトレーニングコースには自分だけだ。ホマレはそのまま練習場を後にした。