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軌道逸脱と感情の干渉について【チ。/バデーニ】

第6章 必要十分条件としての君



「……おはようございます。少し、顔色がいいですね」
「昨夜、よく眠れたので」

 ほんの小さな嘘をついた。眠れたわけではない。けれど、決意をした者の顔は、きっと眠った者よりも落ち着いて見えるのかもしれなかった。

 彼は私の手から籠を受け取ろうとしたが、ふと手を止めた。そして、まっすぐ私の顔を見ようとするように目を向けて言った。

「……あの件、考えていただけましたか?」

 私はうなずいた。すぐに答えようとしたのに、喉の奥に何かが引っかかったようで、言葉が出てこない。

「言葉が出ないときは、吐く息でいいのですよ。神は、ため息からも心を読み取れるそうですから」

 少し皮肉のきいた彼らしい言い回しに、私はふっと笑ってしまった。
 そして、静かに言った。

「……行きます。一緒に、どこまでも」

 それだけを言うと、私の中で何かがすっとほどけたように思えた。
 彼の表情が、驚きと安堵と、そして何かを深く噛みしめるような複雑なものへと変わっていく。
 そして、ぽつりと。

「……本当に、いいのですね。あれほど熱心に研究を続けてこられたのに。私と一緒になれば、あなたは学会どころか、薬草ひとつ自由に扱えないかもしれない」
「それでも、構いません。バデーニさんと歩く未来を、私が選んだんです。研究や知識は、なくならない。私の中に、ちゃんと残ってる。きっと、どこかでまた役に立てます」

 彼はしばし沈黙したのち、微かに笑った。
 その表情は、これまで私が見たどんな彼の笑みよりも柔らかかった。

「……ありがとうございます。では、次の問題に移りましょう」
「問題?」
「結婚という制度のもとに、我々が夫婦として装うには、証人と手続きをいくつか――」
「まってください、それ、装うじゃなくて……」

 私が頬を染めて言いかけると、彼はわざとらしく咳払いをした。

「……もちろん、真剣に、ですとも。何を言っているんですか。私はいつだって真面目です」
「もう、ほんとに……」

 笑いながら、涙がにじんできそうだった。

 また逃げる。また偽名。また知らない土地。
 でも今度は、彼と一緒だ。
 それなら、私は何度でも名前を捨てられる。
 ただ一人の人と、真実を生きるために。
 
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