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軌道逸脱と感情の干渉について【チ。/バデーニ】

第3章 証拠なき契約



あの夜からひと月近くが過ぎた。
新月の闇のなか、彼女の手を取った感触が、まるで昨日のことのように蘇る。あのぬくもりが、あまりにも明確に指先に残っていて、もはや誤魔化しようがなかった。

──あれは、何だったのだろう。
斜陽に照らされた机の上の羊皮紙を前にして、ペン先は止まったまま、思考だけが先へ先へと進んでいく。

あの夜。丘の上でアストロラーベを共にのぞいた、わずかな時間。儀礼的な距離が崩れたあの瞬間。手が、離れなかったこと。言葉にしないまま、なにかが確かに変化していたと、そう思っていた。

けれど今になって、ようやく理解する。あれは、兆候ではなく結果だった。自身の中にあった感情が、ずっと前から芽吹いていたのだということを。それを観測できるほどに、ようやく自己認識が追いついただけの話だった。

──彼女に対して、特別な感情を抱いている。言葉にすればそれは単純だが、そうであるがゆえに、恐ろしくなるほどに重かった。

だが、その気持ちを抱いていながら、自分は何ひとつ彼女について知らなかった。薬草の知識と実験の手際の良さ、論文の読み方、文献の選び方。日々の研究で交わす知的なやり取り。そのすべてが愛おしかったが、私が惹かれているのは、研究者としての彼女だけだったのではないか?
そう思ったとき、自分の無知が恥ずかしくなった。
彼女がどこから来て、どんな日々を過ごして、なぜこの院に身を置いているのか、私は何一つ聞いたことがなかったのだ。

知りたい。 ただ、それだけだった。

私は夕暮れ時、診療室の扉を叩いた。
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