第2章 理性の裂け目
帰り道、星のない夜空の下、私たちは並んで歩いた。草の上を踏みしめる音が、夜の静けさのなかでやけに大きく響いていた。
言葉は交わさなかった。でも、沈黙が怖いわけではなかった。むしろ、この静けさに包まれていることが心地よくて、私はただ、その時間が続けばいいと思った。
ふと、小さな石につまずきかけて足を取られそうになる。そのとき、すぐに彼の手が伸びてきた。
「足元に気をつけて」
温かな手が、私の手を包むようにして支えてくれる。そのまま、自然と指先が絡んで、私たちは手を繋いだまま歩き出した。
その距離が、たまらなく近く感じた。歩幅を合わせて進むたびに、指と指が確かに触れ合っているのを感じる。夜風に乗って、彼の香りがかすかに漂ってくる。目を閉じれば、さっき丘の上で見た星空よりもずっと鮮やかに、この瞬間が胸に浮かぶ。
やがて寮の灯りが見えてくる。いつもなら安心するその光が、今日はどうしようもなく名残惜しかった。
歩みが自然と止まり、私たちはまだ繋がれている手に視線を落とした。互いに言葉を探しながら、でも何も言えずにいる。
――いけない。これはいけないことだ。
心のどこかで、そう言い聞かせる声がする。でも、その声はとても小さくて、かき消されそうだった。
バデーニさんが、口を開きかけて、そして閉じた。私も何か言いたくて、けれど言葉にならなかった。時間だけが、するすると零れるように過ぎていく。
彼の指先が、わずかに力を緩めた。それに応えるように、私もゆっくりと手をほどく。名残惜しくて、肌の感触が離れていくのがつらかった。
「それでは……おやすみなさい、ジルさん」
その声はいつもより少し低くて、けれど柔らかかった。
「……はい。おやすみなさい、バデーニさん」
返す声が、震えていなかったか心配になる。最後まで彼の目を見たまま、私は一歩だけ下がった。
彼は微笑んで、ほんのわずかに頭を下げた。それから、振り返らずに歩き出す。その後ろ姿を、私はしばらく見送っていた。
夜風が少し強く吹いて、外套の裾が揺れる。こんな夜に見えるものなんて少ないはずなのに、今はなぜか、すべてがやけにはっきり見える気がした。