第23章 「可惜夜に眠る 後編Ⅰ」
「一人で謝らせたりしないよ。……挨拶も、まだだしね」
(……先生)
大きな身体にすっぽりと包み込まれていると、不思議なくらい怖さが消えていく。
一人じゃないんだって、心の底から思えた。
「でも……うちのお母さん、怒るとすっごく怖いんですよ」
「へえ?」
頭の上で、先生が面白そうに相槌を打つ。
「お父さんが、お母さんのプリンをこっそり食べちゃった時なんて……一週間も口きいてくれなくて」
「お父さん、毎日泣きそうな顔でケーキ買って、謝ってたんです」
その時のことを思い出しながら話しているうちに、顔が自然と綻んでいくのがわかった。
「だから……八年もほっといた私には、きっとケーキじゃ許してくれないかも」
「じゃあ、フランスから超一流のパティシエ呼んで、特大ケーキ作らせようか」
「……はい?」
本気でスマホを取り出そうとする先生に、慌ててその大きな手を両手で包み込んだ。
「だ、大丈夫です! 先生は、いちいちスケールが大きすぎます!」
「そお?」
少しだけ身体を離して、先生が私の顔を覗き込む。
「ま、二人でちゃんと頭下げれば、きっと許してくれるでしょ」
「ふふっ、頼もしいです」
私も先生の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返した。
少し冷たいはずの潮風の中で、お互いの体温だけがはっきりと感じられた。
「悠仁や野薔薇が暴れ出す前に、別荘戻ろう。豪華な夕食が待ってるよ」
「はい、お腹ぺこぺこです」
私たちは繋いだ手を離さないまま、夕陽に染まり始めた砂浜を歩き出した。
もう一度振り返って海を見る。
痛みも、悲しみも、きっと消えることはない。
それでも、残された私たちが前を向いて生きていけるのは――
大切な人たちが遺してくれたものは、ちゃんと心に残っているから。
先生が首を傾げて、顔を覗き込んだ。
「ん? どうしたの」
「ううん。さ、早く戻りましょ」
繋いだ手に、少しだけ力を込める。
「……うん。帰ろう」
先生は一瞬だけ目を細めて、何も言わずに指を絡め直した。
そして――
今、隣を歩いてくれる人がいるから。
♦︎ 第23章 了♦︎