第4章 「触れてはいけない花」
(……やめて。こんな近くで、いつも通りでいないで……)
心の奥で、悲鳴にも似た声がかすかに揺れた。
「そうですね。だから、変な夢見たのかな。」
努めて明るく振る舞おうと、は笑顔を作った。
――その瞬間。
五条の手が、の髪に伸びた。
「桜、ついてるよ」
指先が髪をかすめ、のこめかみの近くを通る。
一瞬で全身が熱を帯びる。
鼓動が暴れ、手足の感覚が遠のく。
何が起きているのか、自分でもわからなかった。
五条は何事もなかったように花びらを摘み取り、の目の前に見せた。
「ほら、きれいだね」
透き通るような淡い桃色の花びら。
――まるで自分の頬まで、同じ色に染まっていると見抜かれたみたいで、は視線を逸らすしかできなかった。
五条は花びらをひらりと飛ばし、中庭の桜の木を見上げた。
「もう、春も終わりかー。は今年、花見した?」
のんびりとした声。
その緩さが、には余計につらい。
この人は、何も変わらない。
変わってしまったのは、きっと自分だけ。
「……あ、そういえば――」
ぽつりと、が口を開く。
自分でも驚くほど不自然な声だった。
言葉の先を繋ぐために、必死に記憶を手繰る。
「……野薔薇ちゃんと、ちょっと約束してたの、忘れてました」
何でもないふうに笑いながら、けれどその声はどこか上ずっていた。
五条が振り返るより早く、は立ち上がる。
「すみません、先に行きます!」
足音だけを残して、ベンチから駆け出した。
胸の奥で鼓動が荒れ狂う。
背中越しに、五条が首を傾げている気配がした。
(……逃げた。先生の隣にいるのが、もう耐えられなかった)
たどり着いたのは、校舎裏の階段だった。
昼の日差しが静かに差し込む。
壁に背を預け、は小さく息を吐く。
胸の鼓動はまだ、さっきのままだった。
(……何やってるんだろ、私)
そう思うと、少しだけ涙がにじんだ。
誰もいない、静かな昼下がり。
は一人、そっと目を閉じた。