第9章 「あなたの知らないさよなら」
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轟音が、空気を揺らした。
ガラスの向こう、ひとつの機体が地を蹴って、空へと跳ね上がる。
じわじわと角度を上げながら、滑走路をまっすぐに走り――
やがて、ふわりと浮き上がった。
尾翼が遠ざかっていく。
青みがかった春の空へ、小さな影が吸い込まれていった。
静かに響くアナウンスの声が、耳に届いているはずなのに、どこか遠い。
音だけが、曇ったガラス越しににじんでいた。
は、ロビーの隅にあるベンチに腰掛けていた。
旅客の姿もまばらな、小さな地方空港。
冷房の効いた室内に、ジェット機の余韻だけが漂っている。
膝に置いた小さなショルダーバッグ。
その中には、深雪から手渡されたパスポート。
偽名で発行された身分証。
当面の生活費として渡された現金の束。
旅券に記された名前は――もう、“私”ではなかった。
(……あれから、まだ一ヶ月しか経ってないのに)
まるで、全部が何年も前のことみたいだった。
高専を出た日。
深雪の手引きで移動し、誰も来ない郊外のアパートに身を潜めた。
テレビもネットも使わず、ただじっと時間が過ぎるのを待っていた。
一晩中、天井を見ていた日もあった。
眠ってしまえば、夢に“彼”が出てきそうで、目を閉じるのが怖かった。
けれど――
「……今日から、違う名前の私が、生きるんだ」
誰に言うでもなく呟いた声は、自分の喉奥で吸い込まれて消えた。
高専のことも。
魔導のことも。
悠蓮のことも。
家族のことも。
そして――先生が好きだったことも。
全部、ここで置いていく。
全部、忘れて生きていく。
指先が、無意識に唇へと触れる。
あの夜の感触が、まだそこに残っている。
『先生、また明日ね』
そう言って、笑顔のまま、彼の部屋を後にした。
胸が熱くて、涙が出そうで、それでも振り返らずに扉を閉めたあの夜。
(……最初から、最後のつもりで会いに行ったのに)
でも。
でも、それでも……ほんの少しだけ期待してた。
あの夜のキスが、何かを変えてくれるんじゃないかって。
けれど、そうじゃなかった。