第9章 「あなたの知らないさよなら」
彼は椅子にもたれたまま、まっすぐに冥冥を見据えていた。
「不器用なぐらい、まっすぐだった。……自分の力にも、ちゃんと向き合ってた」
冥冥は何も言わず、ただ静かに目を細める。
「誰かが手引きした。そうでもしないと、一人じゃ足がつく」
五条の声がさらに低くなる。
「……確証は?」
夜蛾の問いに、五条は首を振った。
「ない。けど、そういうルートに心当たりはある」
沈黙が落ちたあと――伊地知が、控えめに口を開いた。
「……彼女のことを思えば、いや、こう言うのも変かもしれませんが……」
「……何?」
五条の声が低く落ちる。
怒気ではない。だが、確かにどこか、突き刺すような鋭さがあった。
伊地知はわずかに息を詰めたあと、それでも言葉を継いだ。
「このまま、見つからない方が、静かに暮らせるんじゃないかと……」
それは、誰の心にも一度はよぎった考えだった。
このまま、忘れるように。遠くで、穏やかに生きていてくれるなら。
だが――誰も、それを口に出すことはなかった。
「……連れ戻したところで、地獄か」
夜蛾が、低く呟いた。
それは独り言のようであり、重く場に落ちる現実でもあった。
五条はただ何も言わなかった。
……記憶の波が静かに引いていく。
「……どこかで、生きてくれてる」
「それだけが――今の僕には、救いかも」
そう漏らした言葉は、風に紛れて、空へと消えていく。
硝子はしばらく何も言わなかった。
だが、視線だけが横に向けられていた。
やがて、彼女は口を開く。
「……ふーん」
とぼけたような声。
だが、その裏に刺さる棘を、五条は感じ取っていた。
「いいんだな、それで」
硝子は、視線を空へ戻したまま続ける。
「――がさ。他の誰かと付き合って、キスして、抱かれて、結婚して、幸せになって……」
風が止まる。
「それでも、いいんだ? 生きてるなら」
あくまで淡々と、事実を確認するような声音だった。
けれどその一言は、五条の胸を容赦なく貫いた。