第8章 いないひと
午後の屋敷は、やけに静かだった。
廊下を歩く足音は少なく、
カップを置く音や、椅子を引く音さえ、どこか遠くに感じられる。
薄いカーテンが揺れて、陽の光がゆらゆらと床に模様を描いた。
誰かが歩いた跡が、まだ残っている気がした。
微かに開いた扉や、飲みかけのグラス、畳まれた毛布。
そのすべてが、「いた」ことを示している。
でも、「今」は、いない。
部屋の空気には、ほんの少し甘い匂いが混じっていた。
それに気づいた者もいたし、気づかないふりをした者もいた。
名前を呼ぶ声はなかった。
探す音も、問う言葉もなかった。
けれど、誰もが心のどこかで、その気配を感じていた。
今日、は静かだった。
ただ、それだけのことなのに――
まるで、屋敷全体が、深く息を止めていた。
静けさの奥には、ふわふわと白いティッシュが一枚、宙を舞っていた。
音もなく、光に照らされながら、ゆるやかに、床に落ちていく。