第10章 距離感
「ドクター、これはどういうことだ」
数時間後。私はある人に言われて執務室の冷蔵庫前で立たされていた。
「すまない、埋め合わせはあとでするよ、ケルシー」
と私が言っても、当然ながら彼女の……ケルシーの機嫌はよくならなかった。
「名前が書いてあったはずだが? 記憶喪失とはいえ文字の読み書きは出来ていただろう。なぜお前という者が、冷蔵庫にあった他人の物に手をつけたのか、私が納得する言い訳を述べない限り、埋め合わせだけでは許されないことは承知の上だろうな?」
そう。冷蔵庫にあったのはケルシーのケーキか何かだったのだそうだ。なぜわざわざ執務室の冷蔵庫に仕舞っていたかは謎だが、恐らく食堂の冷蔵庫に仕舞っていたら誰かが勝手に食べてしまうからだろう。執務室の冷蔵庫をほとんど開けない私のそばなら大丈夫と思っていたのだろうが……にしてもなぜここに仕舞っていたのかはやはり謎である。
「言い訳は何もない。それ相応の罰を受けるよ」
まさか子どもたちが食べちゃった、とは言えず(あんな純粋無垢な彼らにケルシーの怒りを向けさせられない)平謝りしか出来ない私に、ケルシーはますます眉間にシワを寄せた。
ああ、美人な顔が台無しだ。怒っていなかったら本当に美しいフェリーンなのに。
と思っていてふと気づいた。いや、待てよ……私は、彼女が怒っていない時を見ていない。怒っていなくても彼女は、何か考え事をしていたり書類を睨みつけていたりと、その眉間にはいつもシワが寄っていた。怒らせる原因は大体私のせいだが、たまにはその眉間にシワが寄っていないケルシーを見たっていいのではないか。私はそんなことを悠長に考えていたのである。
「ドクター、聞いているのか?」
ケルシーのやや強めの口調で私は我に返る。そうだった。私は今、ケルシーに怒られていたんだった。
「埋め合わせは必ずしよう。次に寄る街はどこだったかな。限定品を売ってる店があるといいな」
「限定品……?」
ピクリと、ケルシーの耳がわずかに動いた。あ、ちょっと表情筋も緩んだな。