第2章 昏蒙のアリス 前編
ーー「早く帰った方がいい」
夕闇が迫る茜空。
走って、走って。
玄関を開けて、
「ただいま。…お父さん?お母さん?」
返事はない。
家の奥から水の流れる音。
シャワー?バスルーム?
ああ、その先は、行きたくない。
そう思っているのに、私は進む。
ああ、音の先は…ーー
目を開けると、見慣れない天井。
水の流れる音。シャワー?バスルーム?
「雨が、降ってるの?」
日本語で呟いたのは、和風の天井を見たせいか。
「降ってましたが、やみましたよ」
独り言に返事が返ってきて、驚いてビクリとする。
声の方を向くと、和服に濃い色の羽織を着た男性が座っている。
彼は立ち上がって障子を半分ほど開けて戻って来た。
黒髪は一つに束ねて、口元には人当たりの良い笑み。こちらを向く切れ長の目は左のみで、右目は模様の描かれた布で隠されている。
「おはようございます。私は的場静司と申します。月代さやぎさん、具合はどうですか?」
穏やかな口調で尋ねる彼の声に重なる、水の音。
「…」
外は雨上がりの曇り空。
「驚かせてすみません。ここは的場家の本邸です。約束の日にお迎えに行ったのですが、目を覚まされなかったのでそのまま来ていただきました」
「…」
「君には私の婚約者として今日からここで過ごしていただきますね」
「…」
水の流れる音。
水が硬い表面を打つ音。
「どうして…?」
息が苦しい。
音の先は…。
「一目惚れしましてね、というのは冗談で、君の力にとても興味があって、是非うちにと願い出たところ、月代家の方も快く承諾して下さったので」
水の流れる音。
音の先には…。
「どうして?」
息が苦しくて考えがまとまらない。
意識して息を吐くと、やっと肺に空気が入ってくる。
音の発生源は後方で部屋の外7m以上10m未満。
「…どうして水の音がするの?」
言葉を紡いだが、思いの外息を吸えておらず長くは話せなかった。
もう一度息を吸って、
「どうして、雨が降っていないのに、水の音がするの?」
一気に言葉を吐き出した。
隻眼の彼は、わずかに首を傾げて上を見て
「…雨が上がったばかりだから、雨樋を水が流れているんだと思いますよ」
と答えた。
「…そうですか…雨の音ですか…」
目を閉じてゆっくり息を吐き出し、自分が息を詰めていたことに改めて気づく。