第70章 菜虫化蝶(なむしちょうとなる)
いよいよレコーディングの日が来た。そんな日を祝うかのように、今日は東京で桜が開花した。観測史上最速らしい。
桜が急ぐのも分かる。青虫たちが紋白蝶になって華麗に羽ばたくように、桜だって早く咲きたいのだろう。
私も同じだ。早く世界でも通用するようなクラリネット奏者になりたかった。ちょっと前までの私からは考えられない意識の変化だった。
ちょっと背伸びをしすぎたかな。作曲なんてしてしまったのだから。でも、私のやりたいことだった。
江東区の小さなホールを借り、徹のユニフォームのような青いドレスを着て撮影とレコーディングをする。業者はまゆが紹介してくれた人たちだ。
目の前にお客さんがいないのにもかかわらず、妙に緊張した。
時間の許す限り、何テイクも撮っては演奏を確認をする作業はなかなか骨が折れた。納得のいく演奏ができず、集中力がもう切れそうだった。
だけど、無情にもあっという間に退館時間を迎えようとしていた。あと1回しか演奏ができない状態だった。
「萌ちゃん。次がラストだよ」
「うん……」
「これが終わったら彼氏に伝えるんでしょう」
前田くんが私を鼓舞する。
「そうだね、頑張る。 よし。ラスト!」
アルゼンチンに渡った徹へ。私の想いを伝えたい。7年かけてしまったけど、たくさんの経験をして導き出した答え。うんと遅くなったけど私には必要な時間だったのだと思う。
これを聞いたら、徹はどんな顔をするんだろう。楽しみでもあり、ちょっと怖かった。
だけどこの曲はたくさんの人に助けられて出来上がった曲だ。そんな私を助けてくれた人のためにも、悔いのないように演奏しよう。
静かに息を吸い、静かに息を吐く。
私はクラリネットを構えた。
ラストテイク。無事に満足のいく演奏ができ、レコーディングを終えた。
私の処女作にして超大作が出来上がった瞬間だった。