第9章 蚊帳の外※
side 繭
「あれ…?」
今、誰かに名前を呼ばれたと思ったんだけど…。
雑踏の中を振り返ってみても、見えるのは足早に行き交う人たちばかり。
気のせいだったのかな…?
「なにしてんだよオマエは」
「甚爾さん…」
人ごみの中で足を止めてしまった私の腕を引く大きな手。
「ちょっと目離すと迷子になるわナンパされるわ、恵の方がよっぽど手がかかんねー」
「ひどいとーじさん」
「ホラ早く行かねーとオマエのお気に入りのケーキ売り切れるぞ」
「ちょっと待って…いま誰かに繭って呼ばれた気がして…」
「…それが気のせいじゃねーなら余計にまずいだろ。行くぞ」
繋いだ手を強く引かれて迷いなく進む甚爾さんの後をついていく。
確かに私の実家や五条家関係の追手ならばすぐにでも逃げなきゃいけないんだけど、私の名前を呼んだ声がなんだか懐かしい人のものだった気がして、そういう気持ちになれなかった。
私がおそらく実家の関係者であろう人たちに誘拐されそうになった一件から月日が経った今でも、時折現れる追手に居場所が見つかるたび、私たちは住む場所を転々としていた。
初めて甚爾さんと恵と出会ったあの思い出深い部屋にも、今はもう戻れない。
私のせいでひとところに留まれないことが申し訳なかったけど、甚爾さんも恵も私と離れる方が嫌だと言ってくれたから、時雨さんの助けを借りながらヤドカリ生活を送っていた。
しばらくそのまま大通りを歩いていた私たちだけど、甚爾さんに手を引かれて薄暗い路地裏に入った。
「…尾けてる奴はいねーよ。気のせいだろ」
「ごめんなさい甚爾さん…」
「オマエが謝ることじゃねーって何度も言わせんな…ケーキ屋行くぞ」
「うん…ありがとう」
「…お礼ならこっちにして繭。ここなら誰もいねーから」
意地悪な笑みを浮かべて自分の唇をトントンと指す甚爾さん。
たぶん、申し訳なさからちょっとしょんぼりしてしまった私に気を遣わせないようにしてくれたんだよね…?
確かに大通りから外れたここは、私たちの他に誰もいないけど…。
それでも念のため周りをキョロキョロと確認してから、甚爾さんの前に立って背伸びをした。