第3章 Mark 3:29
まだ、翔に名前を教えていなかった。
『いくつか持ってる偽名』か『今の本名』を教えればいいんだろうが、ここまでしてくれたこの若い男に、なぜだか嘘をつきたくなかった。
「……教えてくんないと、大人おむつ着用中って呼ぶよ」
「ヤメロ」
俺はまだベッドから動くことができなかったから、大人用おむつを履かされていた。
小のほうは管が入ってるんだが、大きい方がな…
人が部屋にいるとできない質だし、翔が大学に行って一日いないときもあったから、仕方なくつけているしかなかった。
そんな汚物も、翔は嫌な顔ひとつせず始末してくれる。
医者の勉強をしてるくせに、看護師みたいになんでもない当然のこととして、こいつはやるんだ。
「じゃあ、何がいいのさ?ムーニーくん?パンパーくん?」
「まじでヤメロって言ってんだろ」
俺が考え込んでいる間、翔は吸い飲みを哺乳瓶に見立てて俺に水を飲ませようとしてきた。
「はいはい、つよいつよいでちゅね~」
「いつかシバいてやる」
「嫌だよ。あなた、力ありそうだもん…」
おかしそうに笑うと、吸い飲みの呑み口を口に入れてくれた。
喉が渇いていたもんだからゴクゴクと素直に水を飲むと、翔は薄く微笑んだ。
清冽な微笑み。
男なのに。
まるで愛し子を守っているような。
まるで…聖母のような。
「…智…」
「へ…?」
「俺の、名前…」
信じられないというように目を大きく見開いて。
翔はたっぷり一分ほど固まっていた。
「あの…」
「なんだよ」
水を飲ませるために、俺の頭を抱えたままの翔はおずおずと俺の顔色を伺う。
「いいの?名前…」
「……偽名だ」
そう言ってやったら、やっと翔の腕から力が抜けた。