第1章 それは心からの憂心
無意識に逸らした視線の先にふと、傍の机に積み上げられたノートが目に入った。
これは、ベリアンの記録だ。そして、主様の記録である。
ベリアンはその一番上に置かれた、最近記したものが書かれた一冊を手に取ると、中をめくって確認した。
そこには、この前主様が好きだといった香料の名前、最近お気に入りの音楽、今の季節による体調変化やお心の変化への気の掛け方等、そしてその予兆となる仕草やお言葉使い、この前初めて歩いた散歩コースに咲く花の名前まで、主様のありとあらゆる情報が、このノートには書かれている。
それはベリアンが、長い間主様の隣にいた証であった。
ベリアンは分かっていた。これを全てハウレスに渡せば、きっと真面目な彼の事だから、引き継ぐまでにすべての事柄に目を通し、それ通りに対応することが可能だろう。自分は主様の執事として、これを今ハウレスに渡すことが、正しい在るべき姿なのだろうと。
一枚一枚ベリアンはページをめくってそれらを確認していく。主様がお好きだと仰ったこと、喜んでくれたこと、その全てが己の宝物であり、その時の情景、主様の表情、声色、全て思い出せるのだ。
全て自分だけに許された、それらを知る時間。自分だけが知っている、主様の事。
教えたくは、無い。それが例え、主様の執事として在るべき姿では無かったとしても。
ベリアンは静かにノートを閉じると、黙ってその様子を見ていたハウレスに向き直った。
「大丈夫、ハウレスくんならばきっと問題ありません。主様は、ご存じの通りとてもお優しい方ですから。」
「そう、ですか?分かりました。」
ハウレスが、不思議そうに机に戻されたノートを見ているのに気が付かないふりをして、ベリアンは何食わぬ顔で笑って彼の背中を押したのだった。