第1章 純情恋物語編
潤之助「………」
潤之助さんの大きな瞳が、ゆらゆらと揺らぎながら見開かれた
あたしは、その瞳をじっと見据えて言った
にの江「お互いにね、お互いの過去の話なんかしたこたぁないんですよ
…だから、あたしが潤之助さんを想っていたコトを、雅吉に話したことは御座いませんし
雅吉が昔何をしていたのかなんて、あたしは一個も訊いたことは御座いません
でも
江戸の町の輩はお節介なお喋りが多いですからねぇ
訊いてもないのに、色々耳にしちまうもんで御座います」
目を見開いたまま、潤之助さんが眉を顰めた
潤之助「…左様か…ならば、やはりにの江殿も、御亭主殿の正体を知っていたので御座いますな…
……ならば、何故……」
にの江「アレは、ただの遊び人で御座いますよ」
あたしは、また済ました顔でシラを切った
潤之助「しかしにの江殿!」
潤之助さんは堪らりかねた様に、珍しく大きな声で叫んだ
潤之助「あの御仁は我らの殿と敵対するお家の剣客だったはず!それを貴女は知って…」
にの江「潤之助さん」
あたしは、再び雅吉が去って行った方に目を向けた
にの江「それにねぇ……あたしも、今はただのケチな宿屋の女将なんで御座いますよ…
…武家のシガラミなんざ、とうの昔に捨てちまったんです……だからね」
あたしは、また潤之助さんの瞳を真っ直ぐに見つめて言った
にの江「雅吉はただの風来坊の遊び人
あたしはただの宿屋の女将なんですよ」
潤之助「…ただの遊び人と、ただの女将……ですか」
溜め息と一緒に呟く潤之助さん
潤之助「…にの江殿」
潤之助さんは、あたしに背中を向けて言った
潤之助「先程、忘れられない想いを抱えて生きるのは、辛いものだと仰いましたね」
にの江「ええ」
潤之助「…今は、辛くはないのですか?」
にの江「忘れようと思うから、辛いので御座いますよ、潤之助さん」
あたしは、自分に向けられた広い背中に向かって言った
にの江「忘れなくても良い、淡い思い出は……案外、良いもので御座います」