第5章 偶然
「ありがたく頂くことにしよう、
ちょうどコーヒーが飲みたかった。」
俺がそう伝えると
彼女はホッと安心したような顔に変わり、俺に笑顔を向けた。
それはまるで…
花が咲いたように眩しいくらいの笑顔だった。
思わず見惚れそうになったが
誤魔化すように壁に背を預けてコーヒーを味わっていると感じる彼女の視線…
何も言葉を発しないことに不思議に思い声をかけた。
「…お前は飲まないのか?」
『へっ!?あ…じゃあ……頂きます。』
「フッ…自分で買ったくせに何を言ってる。」
彼女はオレンジジュースの缶を開けて俺の横に並び缶に口をつけた。
互いに何も話さず沈黙が流れるが
それは決して居心地の悪いものではなく、穏やかな空気が俺達を包んでいた。
『あ、あの…私、若山 美緒って言います。
帝丹小学校で教師やってます。
本当にこの前は助けて頂きありがとうございました。
あなたのお名前も聞いていいですか?』
……俺がすでに名前を知っているなんて知らずに
自分の名前を名乗ってきた彼女は、俺の名前も尋ねてきた。
偽名を名乗ろうかとも思ったが彼女はただの一般人。
本名を教えても対して害にはならないだろう。
「…赤井秀一だ。ご馳走様。」
『赤井、さん……』
柔らかな声色で俺の名前を呟いた彼女。
名前を呼ばれただけなのに心臓がドクン、と音を立てた。
これ以上彼女に関わってはいけない…
瞬時にそう察した俺はその場を立ち去ることにした。
『あ…缶のゴミ捨てておきます。』
「すまない。…じゃあな、美緒。
これからは絡まれないように気をつけろ。」
一度だけ彼女の名前を呼び
俺は美緒に背を向けて歩き出した。
…もう二度と会うはずがないと思うのに
なぜそれを少しだけ寂しく思う自分がいるのだろうか。
自分の気持ちがいまいちよく分からないが
最後にもう一度だけ彼女の姿を見ようと思い振り返ったが
美緒も俺に背を向けて歩き出しており、2人の視線が交わることはなかった。