第1章 〜 最終章
ふと彼が櫛を梳く手を止める。「良い香りだ」と言って髪に口付けをされてしまい、私はその寄せられた顔の近さに、咄嗟に身を固くする。
しかしなぜに今宵はこんなに髪が乱れているのですか、とそれを撫でながら尋ねられる。私は答えることができなかった。
__答えられない。答えてはいけない。もし真実を知ってしまったら、この優しい坊ちゃんのことだ。心を痛め、父を軽蔑するだろう。そしてきっと私は解雇されることになるだろう。そうしたら私はまた路頭に迷うことになるのだ。
黙っていると、突然手首を掴まれた。
「よもや、あれ程ふしだらなご婦人だったとは」
その眼には、軽蔑の意が含まれていた。先刻の襖の隙間が、さっと脳裏を過ぎる。
誤解です、平気でそのようなことのできる女なら、とうの昔に遊女になっております、と私は必死で訴える。
「あなたに初めてお会いした時から、俺は辛抱していたのに」
絞り出す様に吐き捨てた後、手首を掴む力がぎりぎりと強くなる。私は再びその眼を見上げた。父親と同じ眼だ。その時その眼が、軽蔑から欲情へと炎を移したのが解った。
弾かれたように、私の背中に力強く回された両の腕。耳を擽ぐる甘い吐息。強く押し付けられる唇。若い肉体に包まれるのはいつ振りか。どうせ汚れてしまった体だ。なる様になればいい。
その時ふと、あの父親は息子が見ていたことに気付いていたのではないかと思った。
頭から背筋にかけて冷水が伝っていく様だった。