第1章 報われない
彼にとっていわゆる「ごく普通の幸せ」は足枷に過ぎないようだ。
友達とのおしゃべりも、彼女 -まあ私のことだけど- とのデート中でさえ、彼はぼんやりと空を仰いでみたり、大儀そうな笑みを浮かべるだけ。
そんな世捨て人のような彼が心底楽しそうに笑うのは自転車に乗っているときだけだった。
むかし、私といるときよりも楽しげなその横顔に子供じみた嫉妬心を覚え、つい自転車の何がそんなに楽しいのか、と意地悪な質問したことがあった。
彼はしばらくきょとんとした表情を浮かべていたけども、すぐに真面目な表情になり、私の瞳をひたと捉えながら、私の手を取り自分の左胸に当てがってぽつり、と呟いた。
「心臓が酸素を求めてポンプしてるんだ。君にも伝わるでしょ、オレが生きてるって」
その時、自分がどういう受け答えをしたのかはこれっぽっちも覚えていないけれど、彼の手のひらが汗でじんわりとした湿り気を帯びていたことと漠然とした不安感を抱いたことはよく覚えている。