第36章 救いの手
仮面をつけている。声を出すのも憚(はばか)られた。僕は通りすがりの暗部の一人であり、彼女は僕の正体を知らない。それで良かった。
今ここに置いていくのは危険だと思い、しばらく彼女に寄り添っていた。避難所の方まで送り届けようと彼女の様子を窺う。
そのとき黙り込んでいたナズナさんが俯いて、涙を一粒こぼした。目をこすり、一言呟く。
「私、怖かった…」
背に微かな震えを感じて、僕は動揺した。本当なら、慰めるように背をさすってあげたいとさえ思っている。
彼女は忍とはいえ、現在戦いとは縁遠い存在だ。多くの殺気に包まれて、さぞ恐ろしい思いをしたことだろうと胸が痛んだ。
だが、顔を上げたナズナさんが言った言葉は、僕の予想とは違っていた。
「また動けないんじゃないかって、誰も守れないんじゃないかって」
ぽつりぽつりと言葉を零す。
「あれだけ生徒たちに忍びの心得を説いているのに、すくんでしまうんじゃないかって怖かったんです…」
僕が何者かも構わずに、彼女は小さな声で続けた。まるで抱えていたものを吐き出すように。
「でも、動けた。ちゃんと戦えたんです。口寄せだって…出来た」
(あの熊は、まさかナズナさんが?)
僕は驚いて、彼女を支えていた手をそっと地面に置いた。口寄せの修業をと聞いてはいたものの、あれほど巨大なものだとは想定していなかった。
僕の動きに気付いて、彼女は僕の目を真っ直ぐに見た。涙の残る目でにっこりと笑う。
「私、暗部って怖い人ばかりだと思っていました。でも、貴方からは、何か温かいものを感じます。……こんな話誰にもしたことないのに。何でだろう?」
その言葉に僕は戸惑って、思わず彼女から体を離した。ナズナさんはそんな僕にありがとう、と言い、口元に笑みを浮かべたまま気を失った。意識が途切れてしまったようだ。
ぐらりと傾いた体を、またしっかりと両手で抱え込む。
(君という人は…)
完全に力の抜けてしまった彼女の体を、思わず抱きしめてしまった。その温かさに安堵する。
遠くにまた土煙が上がるのが目に入り、僕は顔を上げた。前方の建物を見据えると、内側では炎や水流が飛び交っていた。戦いは続いている。
(急がなければ)
ナズナさんを素早く横抱きにして、僕は火影岩の方へと駆けて行った。