第36章 白い夢 第一夜 【帰蝶】
けれど、幸せな日々は長く続かなかった。
楓に縁談の話が来て、断る選択肢など勿論無い。
「嫁ぐのは戦場に行くようなもの、死にに行くようなもの」
姉と離れる寂しさ、そして心から愛し合う姉と東弥が引き裂かれる理不尽さから、激しく泣き喚く名無しを抱きしめ、楓は言った。
「だけど私の身の内には既に交わした愛がある。どこに行っても、愛が心を強くしてくれる。私が私でいられる…」
輿入れの日までずっと気丈で凛としていた姉は、自らにそう言い聞かせていたのだろう。
それなのに運命は残酷で、ほどなくして楓の嫁ぎ先は敵の奇襲を受け、楓も夫も命を落とした。
やがて東弥も戦死してしまった。
勇敢に仲間を守り立派な最期だったと、秀吉が教えてくれた。
まるで自分の一部のようだった姉も、その想い人も亡くなり、さらには帰蝶も行方知れずとなり…
あまりのことに涙も出なくて、名無しの心は死んでしまったような気がした。
人の命も、恋も愛も夢も、何て儚いのだろう。
その無常に心が耐えきれず、ガラガラと音を立てて壊れていった気がした。
何を見ても何をしても、まったく感情は動かなくなった…
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名無しの話を聞きながら、帰蝶は悲痛そうに眉を寄せ、唇を歪めていた。
「楓さまも東弥も…さぞ…」
それ以上の言葉は無かったけれど、故人を深く悼み、寄り添ってくれたように見受けられた。
そんな帰蝶の様子に、名無しの中の凍りついた悲しみが少しずつ解け、癒えていく。
「そうして過ごしていたある日、気づいたら港にいて、海に飛び込んでいた。そして助けてもらったのです。……帰蝶さんにまた会えて、身を挺して救ってもらって嬉しかった。私の心は再び動き出した気がします」
「……」
「姉のような愛を交わすことはできないけれど、せめて初めては…心に決めた人…帰蝶さんがいい…」
名無しの瞳がみるみる潤んでいき、やがて涙となって零れ落ちた。
「だけど…諦めます…。帰蝶さんは私を気遣って断ってくれた。それだけで十分です…」
泣き顔を隠そうと名無しは帰蝶に背を向ける。