第36章 白い夢 第一夜 【帰蝶】
「たとえ叶ったとしても、後に残るのは虚しさだけだろう。ならば知らない方が余程いい。知ってしまったからこそ見える、地獄があるのではないか?」
「……」
帰蝶が口にしたのは秀吉が抱いていた懸念と同じようなもの。
だけど名無しは引かなかった。
「たとえ、その後に待っているのが地獄だとしても私は思いを遂げたい。私が、私らしく生きていくために」
信長に食い下がった時と同じ強い瞳で帰蝶を見つめる。
「私の姉を覚えていますか?」
「楓さまか」
「はい。4年前…ちょうど帰蝶さんが安土城を去ったのと同じ頃に嫁ぎ、間もなく亡くなりました」
「……」
名無しは姉について帰蝶に話した。
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両親を亡くした名無しは、唯一の肉親である楓とともに織田信長に引き取られた。
とても仲の良い姉妹で、互いの存在が心の支えだった。
何でも語り合ったが、名無しが特に楽しみにしていたのは二人で恋の話をすること。
名無しは信長の家臣の一人である帰蝶に恋をしていて、萌黄色の眼差し、端正な横顔、涼しげな佇まいなど、彼の好きなところを興奮まじりに話すと、姉はいつも微笑みながら聞いてくれた。
楓の想い人も家臣の一人で東弥(はるや)という若侍。
二人はふとしたきっかけから少しずつ関係を深めていく。
目と目が合い、少しずつ言葉を交わし、
やがて心が通い合い、
そして抱きしめ合って、
秘かに夜を過ごし、愛し合って…
恋が愛へと変わっていく。
その過程を名無しはドキドキしながら聞いていた。
姉はどんどん美しくなっていき、
彼のことを口にするとき薔薇色に染まる頰や唇は、この世で一番綺麗なものに思えた。
精悍な顔立ちの東弥は寡黙な忠臣で、女性になどまったく興味が無さそうな印象。
それなのに楓の話の中の彼は、打って変わって雄弁に夢を語り、愛を真っ直ぐ伝える情熱的な人。
まったく結びつかないが、男性には愛する女性にしか見せない顔があるのだろうと思った。
いつか自分も、想い人からそんな顔を見せてもらえるのだろうか…
そんな期待を抱くと心に火がともり、生きる希望が湧いてくる。