第35章 白い夢 プロローグ
「もう心に決めた男がいるのか?言ってみろ」
「は…はい…あの…」
一気に戸惑った様子の名無しを、信長は手招きする。
耳打ちされた男の名に、信長は想定内といわんばかりに不敵な笑みを浮かべた。
「…その方が承知してくれるとは…到底思えないのですが…」
元のおとなしい娘に戻ってしまった名無しは、消え入りそうな声で言う。
「期限は明日から5日間。どこへ行っても、何をしても不問。城を出て、社会勉強もかねて自由に過ごせ。すぐに当座の荷物をまとめろ」
「は、はい。あの…ご温情…感謝します」
励まし、そして後押しするかのように、信長は名無しの背中を一撫でした。
名無しが滞在先として選んだのは堺の港町。
懇意の宿屋で部屋を手配し、荷物を運び込んだ秀吉はため息をついた。
信長から命じられたのは名無しの護衛。
あくまでもつかず離れずに、と何度も念を押された。
『名無しの好きにさせろ。心配からの手出しは絶対にしてはならぬ』
自分を縛るそんな命がもどかしい。
今回の自由行動、これは果たして名無しの為になるのだろうか。
絶対的に崇拝する信長の考えとはいえ、今回ばかりは賛同しかねた。
性的な手ほどきを受けて経験を済ませるなど、極めて繊細な問題なのに、期限をつけて放り出すなんて正気の沙汰とは思えない。
名無しは『温情』だと言っていたが、初めて身体を重ねるのは想いを寄せる者がいい、という若い娘らしい願いからだろう。
けれども城を出たことが殆どなく、純粋で俗世間を知らない名無しが、男を見極められるはずはない。
心に決めた相手が誰なのか知らないが、もし、うわべだけで性根の腐った奴にそんな話を持ちかけたら…
いいように体を奪われ、性欲の捌け口にされ、心に一生消えない傷を負ってしまうのではないか。
そんな想像をしただけも、腹わたが煮えくり返りそうになる。
それに…
もし真っ当な者と本懐を遂げられたとしても、その後に名無しを待ち受けているのは非情な男との政略結婚。
その落差は耐え難いものではないのか?
幸せの絶頂を知ったばかりに、余計に苦しむのではないか?
名無しを思い、秀吉は悶々とし続けた。