第32章 歪んだ愛で抱かれる 中編 【蘭丸】
川名の領地に訪れていた平穏な日々がひと月過ぎた頃
領土拡大を目指す夫・泰俊と嶺原の不在が増え、兵を率いてどこかへ出陣していき、とうとう何日も帰城しなくなった。
やがて川名家は不穏な空気に包まれていく。
城に残っている家臣たちはバタバタと騒々しい。
なぜか舅から部屋を出るのを禁じられ軟禁状態になった名無しは、一体何が起きているのか知る術がない。
唯一頼れる侍女のかやの姿も見えず、大きな不安が胸に渦巻いていく。
「名無し様…」
天井から蘭丸の声が聞こえたと思った瞬間に、彼は音もなく降り立っていた。
「蘭丸くん、来てくれたの…」
その姿に名無しは息をのむ。
いつもの華やかな着物ではない。
闇に紛れる黒一色の装束はまるで……。
気になったけれど、それよりも状況を聞きたかった。
「何が起きてるか知っていたら教えて。私、ここから出るのを許されなくて」
部屋の外の見張りを気にした蘭丸は名無しの側に寄り、いつもより低い声で話す。
「落ち着いて聞いて。実は、泰俊様の悪い噂が流れているんだ」
「悪い…噂?」
「ある大名たちが結託して信長様に謀反を起こした。泰俊様も疑いありとみなされてる」
「…!!」
サーッと顔から血の気が引いていくのを感じた。
疑いの根拠とされる泰俊の行動は、武器の大量調達、謀反を起こした大名たちと交わしていた同盟や領土交渉。
「それは違う…違うの」
名無しは必死に首を振る。
「すべて嶺原という家臣の進言で、泰俊様に謀反の意思なんてまったくないはず…」
「だけど…かなり状況が悪い。すでに三成様が進軍の準備を始めてる」
「三成くんが!」
大好きな人と夫の交戦。
想像しただけで胸が引き裂かれそうになる。
「私が今から手紙を書く。誤解だって…!お願い、それを織田軍へ渡してほしいの」
「わかった」
真剣な顔で蘭丸は頷く。
筆をとった名無し。
手が震えて上手く文字が書けない。
やっとの思いで書き上げたものを蘭丸に託す。
「必ず届けるよ。何としても最悪の結果だけは防ぐ。それから名無し様を迎えに行く。ここはまだ大丈夫だと思うから、待ってて」
「…ありがとう、蘭丸くん。どうかお願いします」