第1章 火筒の響遠ざかる
その女は幼少の頃の記憶がないという。
その女は金色の髪を持つという。
その女は底の見えない暗い目をしているという。
その女の首にはロザリオがかけられているという。
その女は神に、国に、戦場に身を捧げたという。
女の名は、八重。苗字はない。
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鶴見篤四郎と名乗る男がとある孤児院を訪れたのは、1893年。
八重が12歳の時だった。
「初めまして。第七師団の鶴見だ。君の名前を聞いてもいいかな?」
八重はじ、と男を見上げる。
朝のお祈りを終えたばかりの八重は、胸元のロザリオを片手に握り、にこりと笑った。
「八重と申します」
腰まで伸びる長い金髪。
つるりと陶器のように白い肌。
遠くから見ればロシア人。しかし近くでよく見れば、日本人の面影もほんのりとある。
八重はロザリオから手を離し、鶴見に向かって深く頭を下げた。
「八重。素敵な名前だね。院長先生がつけてくれたのかな?」
「いえ。父であると聞きました」
八重と鶴見の横を、不思議そうな顔の子どもたちが走り抜ける。歳の高い子どもは畏敬の念の眼差しを軍人へと送っていた。
孤児院の廊下で話をしているから目立ってしまうのだろう。
八重は目を細め、顔も声も思い出せない父へ想いを馳せた。
「父がわたしをこの孤児院へと預けたそうです。その際、わたしの名前は八重であること。そして、ロシアと日本の混血であることを言い置いたそうです」
「そうか。辛いことを思い出させてしまったかな?」
「……いえ。わたしは生まれてから孤児院へ来るまでの記憶がありません。わたしの思い出は2年前、ここに預けられた瞬間からしかないのです。そのため、辛いと思う思い出もありません」
淡々と言い切った八重はしかし、悲しそうな光を目尻に浮かべた。
鶴見は黙って年端も行かない少女を見下ろしていたが、やがて少女と目線を合わせるようにかがんだ。
膝をつき、八重の目を真正面から見据える。
この2人の目は、よく似ていた。
「今日から、君の父はこの私だ」