第1章 朝凪のくちづけ
ザン───……
耳に波の音を残したまま、私は重い気分で帰路へとついていた。
私は毎年家族と夏を別荘で過ごしている。
別荘といってもこじんまりした、コテージに近いようなものだ。
ここは元々住んでいる都心からは二時間ほどの田舎町。
***
「綾乃、お帰り」
家の前のテラスで新聞を読んでいた父が帰ってきた私を見付けて声を掛けてくる。
子供たちと一緒に田舎で夏休みを過ごすのは、昔からの父の夢だったらしい。
「コーヒーでも飲むか」
「うん」
とはいえ、ふたつ上の兄はもうとっくに家を出ているし、母ももう何年も前からここには来ていない。
お盆の休みと週末にしかここで過ごせない父は、ここ二年、一週間程の短い休暇でしかこちらに訪れなくなった。
当然未成年である私も父に倣ってそうせざるを得ない。
「綾乃、お前大学の友達と遊ぶ予定があったりしたんじゃないか?」
目の前に湯気を立てたマグカップを置き、先ほど座っていた椅子に再び腰を下ろした父が、また新聞を取りそれに目を滑らせた。
「いいの。 ここが好きなの」
「……そうか」
そうどこか嬉しげに微笑んで足を組む。
それは本当のこと。
海から歩いて約10分。
湿った風が吹く緑に囲まれたこの別荘を、私は小さな頃から気に入っていた。
私自身が割とのんびりとした性格でもあるし、都会の雑多な喧騒から逃れゆったりと静かに時を過ごせる。
でも、ここに来ている一番の理由はそれではなかった。
『止めとけ』
先ほどの彼の言葉が頭に浮かぶ。
なんで今年はあんな事を言われたんだろう。
一年のうちのほんの僅かな時間を、私は彼と過ごしていた。
……正しくは、早朝にいつも海辺を散歩する彼に私が勝手にくっついているだけなんだけど。
出会いは私が5歳の頃からだから、もう13年。
私より15歳年上のタクマさん。
異性を意識し始める前にもう好きになっていた。
二時間なんて距離は遠距離恋愛の範疇だし、何なら毎週末だってここに来れる。
そう思っていた。
今年33歳になる彼は独身で、海の近くに住んでいる。