第83章 ヒーロー
いつもの自信に溢れたイチカの姿からは想像もつかないぐらいに、弱々しく震えた声。
涙ながらに、消えてしまいそうなほど小さく告げた、その言葉は、ナガレの耳へと届いた。
ナガレ「……君は、本当に」
ザッと、一歩ずつ歩み寄るナガレは、血の海を作ろうとしているイチカのそばにしゃがみ込んだ。
ナガレ「馬鹿な子だ」
イチカ「!」
涙でぐしゃぐしゃになったイチカを見下ろして、その首筋にナガレは注射器の針を刺した。
イチカ「ナガレさっ」
流れるようなその作業は、止める間もなく終了する。
ナガレ「本当に忌々しいよ」
大きなため息をついたナガレは、ゆっくりと立ち上がった。
ナガレ「どうやら時間も、かかり過ぎたみたいだね」
ナガレはイチカを見下ろして、眉をひそめる。
実のところ、イチカは薬への耐久力や吸収率が、高いわけではない。
それでも、この世代では間違いなくキリに次いで実力があるのはイチカだっただろう。
近距離戦でのセンスは認めるが、それ以外の要領は良くはなく、所詮はキリの後を追いかける出来損ないだ。
しかしながら、そんな出来損ないに、随分とまあ時間を取られてしまったらしい。
『居たぞ、こっちだ』
ぞろぞろと現れた面を被った暗部は、ナガレたちを囲むようにして、陣をとった。
ナガレ(面倒になったな……けど、キリさえ使えれば切り抜けられるか)
誤算だったのは、キリが以前の暴走時よりも、理性が残っていたこと。
完全に飛んでしまっていた前回とは違い、自分を抑制していた。
ナガレ(以前の件で、少し耐久性がついたか……ああ、本当に)
ぞくぞくと、背筋が粟立って仕方がない。いったい、彼女はどこまで優秀な被験体であるのか。
ナガレの考えを何度、キリは越えてくれただろう。こんな嬉しい悩みに頭を悩ませられるなんて、研究者冥利に尽きる。
早く、早く、早く。キリを連れて実験を続行したい。
今はわずかに残る理性も、所持している薬を更に投与すれば、それは跡形もなく消え去るだろう。
そうすればキリは、今度はどんな姿を魅せてくれるのだろうかと、想像するだけで興奮してたまらない。