第13章 幸せすぎる無理難題と悲しすぎる別れの口火
「…杏寿郎さん…だけ…です」
「…そうか」
杏寿郎さんは静かな声でそう言うと、私から腕を離した。それから右手で私の顎を掴み、クイッとすくい上げられ顔を真上に向かされる。そして私とは上下逆さまの顔が近づいてくると
…ちぅ
と、優しい口づけが落ちてきた。
うっすらと開けたままにしていた目線の先には杏寿郎さんの出っ張った喉仏があり、そこが杏寿郎さんの声の発生源だと思うと、なんだかとてつもなく愛おしい存在に思えてくる。
ゆっくりと杏寿郎さんの唇が離れて行きパチリと互いの視線が合うと
「邪魔をしてすまなかった。俺は庭で鍛錬をしてくる故、ゆっくりと書くといい」
杏寿郎さんは目を優しく細めながらそう言った。
「…ありがとうございます。私も、文を書き終えて、明日の準備が整ったら訓練に出かけてきますね」
「うむ!」
杏寿郎さんは元気よく返事をすると、中庭へと続く縁側へと向かって行った。それから草履を履き、そのまま行くのかと思いきや
「鈴音!」
私の名を呼びながらくるりと振り返った。
「どうかしましたか?」
そう尋ねた私に向け投げかけられたのは
「大好きだ!」
「……っ…!!!」
なんとも可愛らしい愛の言葉だった。
杏寿郎さんは言って満足したのか、”よしやるぞ!”と独り言を言いながら私の視界から消えて行ってしまった。
私の手から筆がボトリと落ち、ベットリと便せんに墨がついてしまう(まだ冒頭の挨拶しか書いていなかったのは不幸中の幸いだ)。
……大好き…か………嬉しくて…どうかなっちゃいそう…
杏寿郎さんからの”大好き”で胸が一杯になってしまった私は、なかなか筆を手に取ることが出来ず、しばらくの間縁側をただただ見つめていた。
その間ジワリと便箋に広がっていく真っ黒な墨は、まるで私の心を染め上げていくような熱く激しい杏寿郎さんの気持ちとよく似ていた。
落ち着きを取り戻し、謝罪、それからお礼の言葉をしたためたお館様への文を書き上げた私は、すぐさまそれを和へと託した。
"行ってくるの〜"
遠くの空へと飛び立っていく和を見送り、今度は久方ぶりにじぃちゃんへの文を書こうと卓の前に腰掛け、新しい便せんを広げた。