第11章 さよなら、ごめんなさい、そしてただいま※
杏寿郎さんはそんなしずこさんに一礼をすると
「騒がせてすみません。俺は煉獄杏寿郎と申すものです」
普段よりもかなり落ち着いた声色で自身の名を述べた。
「…杏寿郎…あんた、杏寿郎っていうのかい?」
意味ありげなそのしずこさんの問いに、私の頭には疑問符が浮かんでくる。けれども
「はい!そこにいる彼女、荒山鈴音の恋人です」
「…っ!」
"荒山鈴音の恋人です"
杏寿郎さんのその言葉に、そんな疑問はあっという間にどこかへと飛んでいってしまった。
…杏寿郎さん…まだ私を…恋人と呼んでくれるの…?
嬉しくて、けれども同じくらい苦しくて、私の目には今にもこぼれ落ちてしまいそうな程の涙がブワリと迫り上がってきた。
「…っ…違います…恋人なんかじゃ…ありません」
「いいや。恋人だ。別れ話をした事は一度もない。そもそもそんな話をする機会もなかったがな」
杏寿郎さんの声は、先程大声を出した時とは異なり穏やかなそれではあったものの、その内側には確実に怒りの感情が見え隠れしていた。
「そう。あんたが"杏寿郎"かい。…思っていたよりずっと良い男じゃないか」
「……え…?」
しずこさんの杏寿郎さんを知っているようなその口振りに、私はひどく戸惑いを覚える。
「…っどうしてしずこさんが…杏寿郎さんのことを…?」
今まで一度たりとも杏寿郎さんの話をしたことはない。それどころか、私がどこから来たのか、何をしていたのか、それすらも話した事がない。しずこさん自身も、私の過去に関して聞いてくるようなことはなかった。
そんなしずこさんの口から何故、杏寿郎さんの名前が出てきたのか…私は不思議で堪らなかった。
しずこさんは私の方へとクルリと振り返り
「鈴音ちゃん。あんたね、自分では知らないだろうけど、寝言でよく"杏寿郎さん"って呼んでたんだよ」
眉の端を下げ、僅かに微笑みながらそう言った。