第8章 響かせろ、もっと遠くまで
あの日から、私は炎柱様にお会いしていない。なんなら蝶屋敷に近づいてすらいない。
そしてあの出来事。炎柱様に告白まがいのことをされ、さらには人生初めての口づけを奪われたことは誰にも話していない。
雛鶴さんまきをさん須磨さんの顔を見るたびに
"聞いてくださいぃ!"
そう言ってしまいそうになるのをぐっと堪え、私だけの秘密にした。そうすればいずれ
なにそれ?そんなことあった?
そう言えるんじゃないかと、そんな気さえしていた。
そんな気がしていたのに、私は今、蝶屋敷へと自ら赴き、その門をくぐっていた。
「お邪魔しまぁす…」
"挨拶はきちんとしなさい"
それは私の大好きな女将さんからの大事な教えだ。だから破りたくはない。なので私は、なるべく、私が蝶屋敷に来たことを余計な人に知られないようにと小声で挨拶をし
カラカラカラ
蝶屋敷の玄関を開けた。
事前に蝶屋敷の気配を探り、絶対に会いたくない相手、炎柱様が例のあの部屋にいることは把握済みだ。そして、今日お会いする相手、胡蝶様が診察室にいることも把握済みだ。
草履を脱ぎ揃え
「…お邪魔しますねぇ…」
再び気持ち程度の挨拶をし、私は胡蝶様の気配がする部屋まで向かった。
廊下を少し進み、目的の部屋の前にたどり着き
コンコンコン
閉じている扉を軽く叩くと
「どうぞ。お入りください」
胡蝶様は、扉を叩いたのが私だとわかっているようで、扉の向こうからそんな声が聞こえてきた。
扉に手をかけ
「荒山です。失礼します」
そう言いながら扉を開くと
「いらっしゃいませ荒山さん。時間ぴったりですね」
回転椅子の向きを私の方へとクルリと変えながら胡蝶様がそう言った。
部屋に入り、扉をパタリと閉め
「胡蝶様。今日は貴重な時間を私のために割いてもらってありがとうございます」
そう言いながら胡蝶様に向け頭を下げた。