第29章 抱き枕はどこへ?【掌編✳︎炎風音水霞柱】
【杏寿郎さんとアザラシ】
残業から帰り、最近同棲を始めた恋人に熱烈なお帰りのキスをされた私は(うがいするまで待ってと言っているのに辛抱が聞かず何度も同じことをしてくるそんな可愛いところも好き)、部屋着に着替えるために寝室に入り驚愕した。
「っ杏寿郎さん!大変です!」
そんな私の叫びにも近い大声に
ドタドタドタ
「どうした!?」
リビングにいた杏寿郎さんが大慌てで駆けてきた。
「今朝までここにあった筈なのに…私のアザラシが…いないんです!」
目が真ん丸で、可愛いひげが少しあしらわれた、もちもちの、実家を出て一人暮らしを始めてからずっと私の隣で寝てくれていた抱き枕のアザラシが
「…ないんです!」
所定の場所にいない。
ばさりと掛け布団をまくっても
ダブルベッドの下をのぞいても
ウォークインクローゼットを開けても
「ないんです!!!」
何処にもいない。
…私の大事なアザラシ…どこに行っちゃったの…
着替えるのも忘れしょんぼりと肩を落としていると
「……すまない。俺が隠したんだ…」
「…え?」
その言葉に振り向くと
「私のアザラシ!」
先ほどまでの私と同様にしょんぼりと肩を落とし、神妙な顔つきをした杏寿郎さんが、私が探し求めていたアザラシを抱き、寝室のドア付近に立ち尽くしていた。
あまりにもしょぼくれた様子の杏寿郎さんにアザラシを探し求めていたことなど忘れ
「…大丈夫ですか?なにをそんなに悲しそうな顔をしているんですか?」
悲し気に眉の端を下げた杏寿郎の左頬に右手を添える。
「……」
「杏寿郎さん?」
…叱られた大型犬みたいになっちゃって…杏寿郎さんったらどうちゃったの…?
そんなことを思いながら俯く杏寿郎さんの視界に映りこむように身体を寄せると
「…嫉妬したんだ…」
「え?」
杏寿郎さんは私の耳にギリギリ届くような小さな声でそう呟いた。
「…しっと…?…ん?…嫉妬?」
”嫉妬”
それはつまり
「…杏寿郎さん…私のアザラシに…ヤキモチを焼いていたんですか…?」
という結論に至る。そしてその結論が正しいことを
ボッ
と、音が聞こえてきてしまいそうなほどに顔を赤らめた杏寿郎さんの表情が物語っていた。
…やだ…可愛い!!!